ありがとう!平成の名捕手 古田敦也
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そらまめ
2007年10月08日 22:29 visibility535
2007年10月7日、プロ野球のその歴史、選手としてその記録、記憶に残る名捕手が、現役最後の試合に5番打者としてスタメン出場した。
最終打席はショートゴロ。
対戦相手は同じく同年限りで現役を引退する、同年にプロ入りした広島の佐々岡真司である。
引退セレモニーでは彼らしい笑いと涙を誘い、最後に「また会いましょう!」と言って締めくくった。
場内周回ではライトのファンの前にで足を止め、フェンスに登り、熱くファンの声援に応えた。
捕手として守ってきたホームベースの上で胴上げされた。
古田敦也、球史に残る名選手である。
選手として残した実績はもちろん、選手会を代表してプロ野球の危機を救った張本人である。
兵庫県川西市生まれ、タレントの大木凡人は従弟らしい。
どうりで良く似ている。
川西明峰高校から立命館大学を経て、1988年トヨタ自動車に入社。
大学4年の段階でドラフト指名が確実と言われていたが、プロ野球関係者から「眼鏡を着用している捕手は使えない」として敬遠され、結局どこからも指名されないという屈辱を味わった。
しかし、その才能は目覚しかった。
社会人野球時代には全日本代表に選抜。
野茂の女房役としてソウルオリンピックで銀メダルを獲得した。
1989年のオフにようやく念願が叶い、ドラフト2位でヤクルトスワローズの指名を受けプロ入り。
新人でありながら、プロ入りの同時期に監督に就任した野村克也監督の眼にかない、ルーキーながら正捕手に抜擢された。
2年目の1991年も、捕手でありながらシャープな打撃を身につけ、落合博満との激しい競り合いを制して首位打者を獲得。
野村監督の指導の下、もともとの才能に付け加え、頭脳的なリード術を着実に身に着けた。
「野村ID野球の体現者」とも呼ばれ、古田が受ける投手は、どんな投手でも絶妙な配給でいいピッチングをするともいわれた。
対戦相手には、投手ではなく古田のリードとの対戦だと言わしめた。
強肩でもあり、捕球から送球までの動作も早く、盗塁阻止率リーグ1位を9回獲得。
打者としてもヤクルトの主軸となり、日本の捕手史上最多の通算8回の打率3割を達成している。
正捕手・中軸バッターとして攻守にわたってチームの要として活躍し、5度のリーグ優勝に貢献した。
2005年4月24日には、広島戦で史上32人目の2000本安打を達成。
2005年10月5日の対中日戦では史上27人目の通算1000打点を達成。
2007年4月19日の対横浜戦では、史上37人目の2000試合出場を達成。
どれも大卒社会人を経たプロ野球選手としては初の記録である。
そして彼は、お祭り男の1人でもある。
ルーキー年からオールスターにも出場その後2006年まで毎年オールスターに出場を続けた。
2007年も実はコーチとしてオールスターには出場している。
ユニフォームを着ている間、ずっとオールスターに出ていることになる。
2度目の出場の時は、3連続盗塁殺でMVPを受賞。
3度目出場でもオールスター史上初のサイクルヒットを記録しMVPを獲得してる。
選手としての実績はこのように素晴らしいものであるが、やはり語らなくてはならないのは、古田の労働組合・日本プロ野球選手会会長としての活動だろう。
1998年から2005年の間、選手の権利の強化、に努めた。
FA権、ドラフト問題、1軍選手の最低年俸保障云々。
選手会とファンとの交流の場も広く持つように改善した。
そして、2004年の近鉄とオリックスの合併、球界再編においては、敢えてプロ野球ストライキを決行。
結局近鉄の消滅は阻止できなかったが、2リーグ制維持のための新規球団参入へのその道筋をつけた。
監督としては実績を残せなかったが、選手としてヤクルトスワローズに入団して以来「ヤクルトの顔」であり、数々の功績の中で、ヤクルトファンのみならず対戦相手チームのファンからも惜しみない声援が送られる「プロ野球」顔として、素晴らしい選手であった。
そして、今季限りで監督を退任し、現役も引退。
日本球界で有数の名捕手の散り際に心から拍手を送りたい。
ありがとう。プロ野球全体の誇り、古田敦也さん!
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