☆756冊達成記念~もう一人のヒーローを生んだ無名校・消えた校名~

遂にその日はやって来た。野球ファンのみならず、日本国民全員が待ち望んでいた王貞治選手の756号。
夏休み最後の8月31日にハンク・アーロンの755本に並ぶと、そのわずか3試合後の9月3日に訪れた歓喜の瞬間だった。
1死2塁で迎えた初回は、ヤクルト先発の鈴木康二郎に歩かされる。755号を放った後は実に13打席中6度が四球だった。2打席目の3回は無走者。いくら何でもここは勝負せざるを得ない。鈴木は打球を上げさせないために、とにかく低めにシュート、シンカー系を集めた。フルカウントからの6球目、スーッと真ん中やや内寄りに入って来た甘いストレートを王が見逃すはずがない。完璧にとらえた打球は、ライトスタンド中段に突き刺さる756号。一本足の『フラミンゴ打法』が世界にその名を轟かせた瞬間は、巨人入団19年目37歳での偉業達成だった。


偉大な人格者として皆に尊敬される王だが、試合後のインタビューに彼の人柄が顕著に表れている。
「ヤクルトの鈴木君には申し訳ない気がする」。実際、もう一人のヒーローとして報道陣から取材攻めにあっていた鈴木を「俺のせいでえらいことになってしまったな…。いろいろ言われるだろうが、絶対に負けるなよ!」と励ました。
鈴木は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗る事になってしまう」と奮起し、この年は14勝、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に貢献した。


鈴木康二郎は、茨城県北茨城市出身、磯原高校から日鉱日立を経て、1972年ドラフト5位でヤクルトに入団。シンカーを武器に、長身のスリークオーター右腕として活躍した。
756号のもう一人のヒーローである鈴木の母校・磯原高校を訪ねてみた。しかし…。



茨城県の最北端に位置し、福島県のいわき市などと隣接し、昔は炭鉱町として発展した人口約45,000人を有する北茨城市に磯原高校がありました。
磯原高校は1953年(昭和28年)に創立され、2008年(平成20年)に北茨城高校と統合され磯原高校の場所に磯原郷英高校として生まれ変わったのです。
野球部は1954年(昭和29年)に創部され、甲子園出場はありません。
夏の予選には1955年(昭和30年)に初参加し、初戦で取手二に0-10と大敗を喫しました。翌年も初戦で取手二との対戦となり0-7で敗退となりました。
夏の予選初勝利は1958年(昭和33)年、境を4-2で破っての勝利でした。
夏の予選初勝利から積み上げた勝ち星は73勝(53敗)、4強2回、8強6回で、春の県大会は1966年(昭和41年)、秋の県大会では1969年(昭和44年)に優勝を成し遂げています。
また、ラグビーにおいては全国大会ベスト8に2回進出しており、統合相手の北茨城高校も全国大会ベスト8進出を1回成し遂げております。


磯原高校は、鈴木康二郎をはじめ、金澤健人(現ソフトバンク)、石井竜也(米米クラブ)など球界・音楽界を代表する逸材を輩出しております。この地では地元のヒーロー達と共に、磯原高校の名前は消えることなく後世まで語り継がれていくのでしょう。


 


 


以上です。

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