☆勇者は帰る~奇跡の箕島~



(写真は仲本さまから無断借用です[d162])

箕島高校が29年ぶりに夏の甲子園に帰ってきた。率いるのは、尾藤公・元監督の息子・尾藤強監督である。
箕島といえば、甲子園で数々の奇跡を起こしている。

下記はその一例である。


第61回夏の大会3回戦(昭和54年)
星稜 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 = 3
箕島 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 1 = 4
(延長18回)

星稜が1点勝ち越した延長16回裏、箕島は簡単に二死。
続く森川が一塁線のファウルグラウンド方向へ高い打球を打ち上げた。打球を追っていた一塁手・加藤が走るその先には、この年から敷かれた人工芝があり、土の部分との境界が出来ていたが、上空を見上げながら打球を追う加藤の目には入るはずもなかった。やがて走る速度が落ち一瞬両手を広げたため、彼が捕球体勢にはいった事は誰の目にも明らかになり、これで試合終了かと思われた。
が、次の瞬間、加藤のスパイクが人工芝の縁の部分に引っかかり、彼は足がもつれた後しりもちをつき背中が地面に叩きつけられるように転倒した。加藤は完全に体勢が崩れ、しりもちをつく直前という状態になってもなお、必死でファーストミットを伸ばし捕球を試みるような動作を見せたが、無情にもボールは加藤のすぐ右横に落ち弾んだ。
これにより命拾いした森川は、カウント2‐1から左中間スタンドへ起死回生の同点本塁打を放つ。この時、試合を実況していた朝日放送のアナウンサーは、「甲子園球場に奇跡は生きています!」と叫んだ。
そして、引き分け再試合かと思われた18回裏に箕島はサヨナラ勝ちをおさめた。



第65回夏の大会1回戦(昭和58年)
吉田 0 0 1 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 = 3
箕島 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 0 0 2 = 4
(延長13回)

1点を追う箕島は9回裏に1死三塁と同点のチャンスを迎えた。
ここで打席にはホームランを放っている硯。箕島ベンチはスクイズを敢行するも、吉田バッテリーにはずされ三塁ランナー勘佐が三本間で挟まれタッチアウト。2死無走者となり試合が決まったかに思われた。
しかしこの試合でも「奇跡の箕島」は生きていた。硯が起死回生の同点ホームラン。試合は延長戦へ突入した。
13回表、吉田は1死一、三塁からダブルスチールで再び1点をリードした。追い詰められた箕島はその裏、1死から勘佐がセンター前ヒットで出塁した後、吉田の守備の乱れなどで同点に追いつき、なおも満塁から角田のレフト前ヒットで逆転サヨナラ勝ちをおさめた。



この夏、箕島高校は大会初日の第三試合で山梨代表の伝統校日川高校と対戦する。前述した、吉田高校は山梨代表であった。
また、星稜高校も6年ぶりに夏の甲子園に帰ってきた。前述した、星稜の加藤一塁手の息子が星稜の控えの一塁手というではないか。


この夏、34年ぶりに夢の対戦が実現しそうな予感がする。
ってか、34年前アタシは生まれていたのかしら?(´・ω・`)





つづく。














































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