七たび生まれ変わっても、我、パ・リーグを愛す

  • winters
    2006年11月24日 09:56 visibility617

我々の思想には歴史背景があることを忘れてはいけません。


そこで、最近ファイターズファンになった方のために今日は参考文献を用意しました。

 

「七たび生まれ変わっても、我、パ・リーグを愛す」

宮田親平(『 Number 19 』1981年1月20日号)

 

原文は長いので一部編集版です。あまりにも昔の文章なので

現実に即していない内容もありますが
あくまでも歴史的背景を確認するための資料としてお考えください。
途中に私の注釈も入っていますのでよろしければ参考にしてください。

 

日本ハムの後期優勝が決まるかもしれないという昨年、対近鉄戦の

10月7日、ぼくは後楽園球場ジャンボスタンド
(1970年に増設された内野2階席のこと。

その上段はフィールドよりかなり遠く背番号の確認も難しかったです)
のてっぺんで 、「長年のパ・リーグファンを遇するにはひどすぎるぞ」と、球の行方も良く見えない最悪の席に内心愚痴りながら、しかし

いささかの満足感を持って、”熱パ”5万人の大フィーバーを

見下ろしていた。 この日はすべてが普段と違っていた。

 

パ・リーグの試合は大体、いつ行っても、望みどおりの席が手に入る。ところが、6時前に着いた球場の切符売り場は、もう長蛇の列だった。

信じない向きもあるかもしれないが、日本ハム戦には、いつも

ダフ屋が出ている。ただし、このダフ屋は常態に反して切符を正価より安く売るのである。


よく判らないが、日本ハム親会社がサービスに、おそらくは食料品店

などにタダでバラ播いたであろう切符を集めてきて、売りつけているの

かもしれない。

 

でもぼくは、ダフ屋氏の努力には敬意を洗っても、
少々の経済的損失は承知の上で、断乎として正規の切符を買う。

この赤字チームを引き取り、運営してくれている大社オーナーへの

心からの感謝の意をこめて、だ。
(私も感謝の気持ちを忘れないために、今でも正規の料金を出して野球はみることにしています。)

ところが、この日の闇切符は、ダフ屋は正規の営業通り、ちゃんと

高く売っていた。これが第一の驚きだった。指定席はすべて売り切れ、

やっと内野自由席を買って入場したのだが、6時前すでに

満員寸前で、あわや札止めの憂き目に遭うところだった。

これはぼくのパ・リーグ人生でほとんど初めてのことである。

 

超満員の観客を見下ろしつつ、しかし、これはおかしいな、

と思っていた。悪いけれど、こんなに日本ハムファンがいる筈が

ないのである。ぼくはガラガラの球場で試合を見ることに

慣れてしまっている。恐らくは、今日のこの中の

“にわか日本ハムファン”諸氏は、大沢監督の胴上げというショーを

見にきたのであろう。結局、日本ハムはあいにく惜敗したが、

それはどうでもいい。ぼくは別段日本ハムファンではないのだから。

 

しかし、試合は稀にみる好ゲームだった。
隣のアベックの男が口走った。

「パ・リーグの方が面白いなあ」 嬉しい言葉だった。
ぼくは、彼らにぼくがこの試合を見せてあげているんだとでも

いいたい優しい気分になって、ひとり大きくうなずき、

彼らの幸福を祈ったのである。

 

全くぼくはまるで“パ・リーグ会長”だ。

 

多くの野球狂がそうであるように、ぼくはスポーツ欄から紙面を

見ることが多い。といって、勝敗には格別の関心はない。

では何を見るのか、観客動員数のみである。

 

パ・リーグはほぼセ・リーグの半分だ。

数年前までは3分の1がいいところだった。 1年に1度か2度、

全試合が行なわれていて、パがセを上まわることがある。

これには条件が要る。

 

広島か巨人が独走していて、この両チームの試合が広島球場で

行なわれる日、これが満員になるのは致し方ないとして、

広島球場は器が小さい、そして、この時、巨人によりかかっている

セの他チームは満員の客を集めることができない。

 

他方、この日、パ・リーグが後楽園と西武球場で、日本ハム、西武

両チームが“営業努力”によってほぼ満員の客を集めえた時、

これに関西で首位を争う好ゲームが加われば、ようやくパは

セを上回る。

 

僕の記憶では、一昨年は2日、昨年は連日上回った終盤を除けば

1日だけあったような気がする。
この日、ぼくは1日中口笛を吹きたいような爽快な気分に満たされる。

 

だから、ぼくにとって大方のスポーツ紙の1面は白紙のように

無縁である。テレビを見たり、ラジオを聞いていたりするのは、

パ・リーグの途中経過を知るという、ただ一つの目的の為に過ぎない。

 

パ・リーグの全チームのライン・アップはもちろん、2軍選手まで

相当の知識を持っているつもりだが、もし誰かに、

 「いま、巨人の監督は? 4番打者は?」と訊かれても、

 「知らない」 としか答えようがない。

ぼくにとってセ・リーグとは「存在しない」のだから、
存在しないものについては知りようもないのである。

 

パ・リーグのチームはみんな好きだ。もしかしたら、ぼくは本物の

パ・リーグ会長よりも、パ・リーグを愛しているのかもしれない。

なぜ、かくもパ・リーグを愛するか。


昭和25年、プロ野球は2リーグに分裂した。ぼくは大下のファンだった。

毎日新聞が旗振りとなり、太平洋野球連盟が誕生して

セントラル野球連盟と対峙した時、当然のようにぼくは

東映フライヤーズの属するパ・リーグファンに移行した。

 

しかし、この時、フランチャイズ地図を見渡しつつ、ぼくには大きな

危惧があった。西鉄の博多はよい。しかし、中京の大市場を

独占する中日がセに加わったのはまずい。

何よりも関西に3球団がひしめいているのは致命的だ。
このことは多少矛盾するが、最後まで去就に迷ったといわれる

人気チーム、阪神がセに踏み切ったのは、痛かった。

ぼくはパ・リーグ崩壊を予覚した。

 

そして、その予覚ゆえにいっそう、パを支援しなければならないと

固く誓った。


それに大下と川上、この国の風土はなぜか天才型崩壊をくりかえ

させている。信長と家康、ズングリ無愛嬌努力守成型が

最後の勝利者の席をかちとる。

 

ぼくは川上=セ・リーグの成功型に対して、
宿命的に大下=パ・リーグの崩壊型を背負い込んだことになるだろう。

 

毎日新聞が手を引き、マスコミに見放され、黒い霧事件では謀略の

ように西鉄、東映などパのチームが狙い打ちされた。
ぼくはいよいよガラガラの球場で、一生懸命プレーをする選手達を

応援した。

パの試合にはなかなかつきあってくれる友人がいなかった。

ぼくは一人で出かけた。勝敗の帰趨などどうでもいい。

ハッキリいえば、野球などどうでもいいのである。

ただ一人でも観客をふやしたい一心に、である。

バカバカしいと笑わば笑え。

 

巨人戦は連日の満員を告げていた。
同じ野球をやりながら、ドラフトやトレードで、偶然にもパに

属している選手たちである。
ぼくはこの甚しい社会的不公平に激しい憤りを覚えながら、

テレビには映らない、いとおしい選手たちの姿を追っていた。

 

 “パ・リーグ会長”は僭越だから、この頃から、代わりにぼくは

“パ・リーグ振興連盟事務局長”を心中深く任じてきた。

規約案はすべてわが腹中にある。2、3紹介してみたい。

 

 1.「セ・パ両リーグ」を「パ・セ両リーグ」に呼び改めさせる

国民運動を起こす。いったい、なぜ「セ・パ」なのか、キノトール氏

であったと思うが、かつて、前年の日本シリーズの勝者を出した

リーグを上にして、「パ・セ」もしくは「セ・パ」と呼称すべしと提言した。


しかし、セ・リーグには錦の御旗があるらしい。太平洋野球連盟は
日本野球連盟から分立して誕生したのだから、セ・リーグこそが、日本野球連盟の正統の継承者なのだ、と。

しかし、ぼくはその確証を見たわけではない。

 

この点については、ちょうど日本国憲法における江藤淳氏のような

論客が現れ、分裂の経緯をめぐる資料を精細に分析して

堂々の論陣が張られることが望まれよう。

 

だが、ぼくにいわせれば、その必要もなく、簡単である。

言語学的に「パ・セ」だけが成立し、「セ・パ」はありえないのである。

破裂音Pが2音目以下にくるためには、「つまる」こと即ち促音

が必要だ。「ラッパ」「カッパ」である。

「セ・パ」は「セッパ」としか表記しえない。

この解決法は、破裂音を前に置いて、「パ・セ」という以外にない。

「パセリ」はあるが、「セパリ」はないのである。無理に「セ・パ」と呼ぼう

とするなら、「セ」も「パ」も明確に発音しなければならない。

ところが「パ・セ」なら、「パ」だけをしっかり発音すれば「セ」は

あるかなしかの小さな発音だけで足りる。小さなことかもしれないが、

1億人が「セ・パ」から「パ・セ」に転向した時、

その省エネルギーははかりしれないものがあるといえるだろう。

 

 2.阪急の福本豊選手がブロック選手の盗塁記録を書き換えた

暁には、政府は国民栄誉賞をやれ。誰も知るように、

日本の球場の外野フェンスまでの距離は、大リーグのそれより短い。
O選手の世界記録と称するものが、ファクターの不整合性においてデータになり得ないのは、初等数学でもわかる。


これに対して、塁間距離は同一であり、正真正銘の世界記録だ。

捕手の肩を指摘する声も出ようが、これは数量化されていないから、

誤差の範囲内にとどまるといえる。
(この案は実現する動きがあったのですが、ご本人が固辞されて受賞

には至っていません。)

 3.ドラフトに当たって、毎年、パ・リーグを拒否する不愉快な

新人が現れる。いったい、キミらの教師たちは、いかなる民主主義教育

を行なってきたのか、親の顔も見たいものである。

与謝野晶子流に詠えば、 「パを拒めしと、教へしや」 だ。
このような不心得な新人選手宅の門前で座り込み運動をやろう。

世間には封筒にカミソリを入れて送るとか、爆薬を仕掛けるとか

物騒な手段もあるようだが、

むろんぼくらはそのような法にもとる行為はとらない。
(この案についてはどうかと思いますが、それだけ当時のセ・リーグ

偏重が大きかったということをご理解ください。)

 

エトセトラ、エトセトラ、きりがないのでこのへんでやめておくが 、

ともあれいまや「パ・リーグの時代がやってきた」のだそうである。
長年パをマイナー扱いしてきた、セの機関紙と思しいスポーツ紙までが、ついにいまいましげに1面にパの試合を報ぜざるをえない日が

到来したことを率直に喜びたい。

 

パの凋落の甚だしい頃、1リーグ制への再編成が囁かれた。
(この話は時代を超えてくすぶっていることが、この文章からも理解

できますね。)

セの当局者はうそぶいた。

「もし行なわれるなら、対等合併ではない、吸収合併である」
東映(日拓)、東京、西鉄(太平洋)が次々と売りに出された。
パ・リーグを安宅産業にしてなるものか。毎日新聞がつぶれて

なるものか。

資力が許せば、一つでもぼく個人が買い取りたかったのだ。

ぼくの代わりに買い、ここまで育ててくれた各チームのオーナー諸氏に

心から感謝を捧げたい。

 

そして、昨今のこの復興は、その多くを、オンボロチームと化した

ライオンズを引き受け、西武球団を人気球団に仕立て上げた

堤オーナーの手腕によるだろう。

ぼくは、日本ハム・近鉄戦の7日につづいて、10月8日、西武球場に

赴き、西武・近鉄戦の4万人の大熱狂に感動した。

 

だが、ここで敬愛する堤オーナーに感謝しつつも、あえて苦言を

呈したい。 もとより杞憂であろうが、もし堤オーナーが資力に

物言わせ、かつての巨人軍のように横紙破りやルール違反によって

西武ライオンズに“常勝”を義務づけるようなことがあるなら、

それは無用としたい。

 

巨人=セがそうであったような家元制は、パ・リーグには不要である。

 パに“盟主”はいらない。 巨人だけが白人で、あとのチームは

スーやシャイアンやアパッチなどのインディアンといった風の

古いタイプの西武劇を演じつづけてきたセ・リーグとは、
断乎として一線を劃しなければなるまい。
(いくら世界平和を願って金も労力も使っても、常任理事国にも、

アジアの盟主にもなれないのはたとえ正論だとしても

自分たちの論理を押し通し、過去の経緯を軽視して隣国とうまくいっていないから?・・・・なにかと似てますね。)

 '80年代はパの時代であれ。しかし、これはセからONが引退したから

などというケチなものであってはならない。 ケネディが暗殺されたら

共和党のチャンスだろうか。

パ・リーグとは、民主主義の精神の具現なのである。

ともあれ、パ・リーグよ永遠なれ。

生き変わり死に変わりパ・リーグを愛す。

 

いつの日か、ぼくが人生に引退する時が訪れたなら、
ぼくは必ずや高らかに叫ぶであろう。 

  「パ・リーグは永久に不滅です」と。

 

我々はプロ野球を愛して献身的にパ・リーグをささえてきた先人達の努力の上に、

今があることを忘れてはいけないのです。
今年は良かったけど、ファイターズもいい時ばかりではないのです。

昔のような状態に戻ってしまう可能性だってあるのです。
だからこれからもみんなで球場に足を運ぼうじゃありませんか!

そして真の日本一チームを我々の力でつくろう!     

chat コメント 

コメントをもっと見る

通報するとLaBOLA事務局に報告されます。
全ての通報に対応できるとは限りませんので、予めご了承ください。

  • 事務局に通報しました。