頑張れ野球小僧、的場寛壱さん
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そらまめ
2007年08月04日 09:39 visibility1311
マイヤキューのがんさんの日記で私の好きな的場寛壱さんの話題に触れられていたのでちょっと便乗。
がんさん、すいませんm(__)m。
2005年シーズンをもって阪神を退団し、プロ野球界を退いた的場さん。
決して引退したわけではなく、今もノンプロのトヨタ自動車に在籍し、「5番・一塁」で試合に出場することが多い。
祖父に鍛えられた野球小僧、的場寛壱さん、少しでも上を、復活を目指してまだまだ頑張っている。
九州共立大学時代、50m6.0秒の俊足で長打力も持つ打てる内野手そして、全日本代表遊撃手として注目され、1999年に逆指名でドラフト1位で阪神タイガースに入団してくれました。
しかし、正遊撃手としての活躍を期待されていましたが、1年目は11試合に出場したもののキャンプでの左脇腹痛で遅れ、2年目には致命傷となった右ひざの故障。そして手術。
3年目、4年目は手術後のリハビリ。外野手兼一塁手にコンバートし、5年目は2試合に出場はした。
6年目の2005年春季キャンプでようやく実績を残し、やっと一軍定着かと思われたが再び故障。
結局怪我に泣かされ続けて、チャンスをものにできなかった。
タラ・レバになるが、野球センスは抜群で、潜在能力も高く、怪我さえなければ今も正遊撃手としてタイガースを引っ張っていたかもしれない。
結構お笑い芸人的なキャラも持ち合わせムードメーカーでもあり、同僚の阪神選手たちの形態模写が上手かった。
2003年、2004年の「ファン感謝デー」では、その物真似を本人たちのいる前で披露し、選手たちはもちろん、スタンドのファンも大爆笑だった。
プロ野球では結局24試合に出場、通算7安打、打率.143 本塁打0 打点1の記録が残っている。
2005年1月9日、阪神尼崎駅の駅前にあるショッピングセンター尼セン前で行われたトークショー。
この時は、当時の平田ヘッドコーチ、そして背番号を22に変更したばかりの藤川球児投手とともに、的場寛壱さんも出席された。
あの有名な尼崎ボーイズを結成した的場さんのお爺様も観客にいても大いに盛り上がった。
サイン会は、早くから配布された整理券を持っていなければ参加は出来なかったが、トークショーの中での質問コーナーで指名されればその場でいただけるということで、私も何も考えず必死に手をあげました。
運良く、平田ヘッドに、「ハイそこの叔父さん・・・」と指名され、おいおい叔父さんかよと思いつつも大興奮。
指名していただくことに必死で、なんにも質問を考えていませんでしたが、
的場選手には
「怪我が多く、ファンの期待、チームの期待に応えていない。勝負の年になると思うし、今度怪我をしたら後が無い。2005年をどうやって乗り越えていくのか。」
なんてキツイ質問をしてしまった。
「既にトレーニングは続けているし、開幕から1軍を目指して頑張る。確かに怪我は怖いが、それを心配していてはプレーも練習も出来ない」
と言うような答えをいただいた記憶がある。
この年、ようやくキャンプで実績を残し、オープン戦にもどんどん出場した。
本当にやってくれるのかなと思っていたら、やっぱり怪我・・・・
本当に残念だった。
球児選手には、当時メジャー志向で賑わせていた井川投手がいたので
「背番号を22に変え、心機一転いろいろと頑張ってほしい。大活躍をしてくれると信じているが、もし実績を残したら井川投手のようにメジャーを目指すのか」
と言うような質問をした。
「何事も向上したいと言う希望はある云々・・・」との回答をいただいている途中で、平田ヘッドがやばいと感じたのかと回答を遮ったという面白い思い出も有る。
まっ、記者も一杯いたし、不用意な発言は避けたかったのだろうな。
しかしね球児君、いまや無くてはならないクローザー。
2005年1月9日のこの日には、球児がここまでこんな重要な選手に成長するなんて判りもしなかった。
懐かしい思い出です。
的場さん、トヨタでは選手契約社員から、普通の社員になりトヨタの職場にも出ているようですね。
プロ野球トライアウトにまだまだ出てほしいな。
トークショーでいただいたサインです。
ついでですが・・・
私も2003年のタバコなら持ってます(^_-)-☆
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- 事務局に通報しました。
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