名伯楽逝く‐印象的な豊見城時代

プロ野球に多くの選手を送り出した沖縄水産高校野球部の栽弘義監督が他界された。
元巨人の赤嶺投手をエースに据え豊見城高校部長として甲子園出場したときのことは、私も当時は幼少でありながら今もなんとなく覚えている。
第47回の選抜高校野球。
当時、初出場であった豊見城高校は、年齢制限の為試合出場出来なかった3年生の亀谷興勝選手が監督登録され、裁監督は部長登録としてベンチ入りし采配を振るっていた。
当時は初出場の豊見城高校の惨敗を予想していた。
初戦の相手は、千葉県代表の習志野高校。
この試合で、赤嶺投手は強打・習志野相手に2安打・10奪三振の完封劇を演じた。
豊見城高校は次の日大山形戦でも快勝。
見事ベスト8進出を果たし、原・津末・村中らのスター選手を擁して全国で最も人気のある東海大相模高校と対戦。
この試合でも赤嶺投手は快投。
9回裏2死まで「1−0」のリード。
原辰徳から三振を奪って2アウトになったときは、地元東海大相模を応援しつつも、この対戦にめちゃくちゃしびれた。
この後、東海大相模の底力で、豊見城にサヨナラ勝ち。
栽部長と赤嶺投手は悲劇のヒーローとなった。

そしてその後、栽監督は、沖縄水産高で指揮を取り、90、91年夏に連続準優勝を果たし、沖縄県勢の悲願にあと一歩まで迫り、沖縄旋風を巻き起こした。
栽監督の沖縄野球は本当に素晴らしかった。
甲子園は98年夏に出場したのが最後ということだ。
今日午前、沖縄の病院で亡くなられた。まだ65歳の若さだったんですね。
赤嶺賢男(元巨人)、石嶺和彦(元オリックス・阪神、中日打撃コーチ)、上原晃(元中日)、新垣渚(ソフトバンク)たちは栽監督の教え子だ。
心からご冥福をお祈りいたします。

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