☆新たな一頁を刻んだ師範学校

 

以前にも述べましたが、夏の選手権大会において、千葉県初の代表校となったのは、銚子商でも千葉中でも成田中でも成東中でも佐倉中でも木更津中でも安房中でも茂原農でも長生中でも佐原中でも大多喜中でも関東中でも千葉商でもなく、千葉師範であった。

1918年(大正7年)の関東大会に千葉県が初めて参加してから8年後の1926年(大正15年)7月26日、千葉師範が全国大会出場を決め、千葉県高校野球史に新たな一頁が刻まれた。
参考までに、師範学校が初代表となったケースは、他に福島師範と長野師範があります。

千葉師範学校とは、1872(明治5)年に明治政府の学制の発布(寺子屋や藩校の廃止と小学校の建設)に際して、教員の養成が急務となり、当時の印旛県は流山の常与寺に「印旛官員共立学舎」を開設。
翌年、千葉県の発足に伴い、千葉市(当時・千葉町)に移転して「千葉学校」となった。
その後、「千葉師範学校」「千葉県尋常師範学校」「千葉県師範学校」と名称を変え、1943(昭和18)年に「国立千葉師範学校」となった。
戦後の1949(昭和24)年に千葉師範学校と千葉青年師範学校を合併し「千葉大学学芸学部」となり、 翌年「千葉大学教育学部」となって、現在に至っている。



千葉県高校野球史に新たな一頁を刻んだ千葉師範の跡地を訪ねてみた。
そこには以下の碑文が残されていた。

千葉師範学校発祥之地
印旛官員共立学舎跡

明治五年(1872年)八月学制発布の頃、流山は下総九郡「千葉・印旛・埴生・葛飾・相馬・岡田・豊田・結城・猿島」を行政区域とする印旛県の県庁所在地であった。
学制が発布された年の九月、時の印旛県令河瀬秀治は、いままでの教育機関―寺子屋などを、九月限り廃止することを命じ、同時に小学校の新設を宣言した。文部省に提出された実地施行書には、「学制ニ因リ教則ニ随ヒ官員協力仮ニ小学校九月二十三日開業候事、教授人ハ官員中ヨリ当分之ヲ勤メ、費用ハ官員熟議左ノ制ヲ設ケ当分之ヲ償フ。奏任官々給十分ノ一、判任官々給廿分ノ一……」とある。
県令以下の官員が月給の一部を拠金して、明治五年九月に開設した学校、それが「流山村常与寺」の「印旛官員共立学舎」である。
共立学舎は学制により新設される小学校の模範であり、小学校教員になろうとする人びとに、教授の内容・方法を実際に習得させる場でもあった。「伝習員」と呼ばれ、印旛県内各区から選出された人びとは、試験ののち十一月はじめに入学、六十日間教授法を学んで各地の小学教員となった。
まさにここ常与寺に、学制に基づく教育はうぶ声をあげたのである。この共立学舎は、鴻ノ台学校と改称流山村光明院に移り、ついで印旛・木更津・新治三県の統合により千葉県が誕生、県庁が千葉町に移ると、千葉学校と改称し、千葉町正妙寺に移転した。更に明治七年千葉師範学校の発足へとつながった。また常与寺はその後も流山小学校として、地域教育の中心となり、明治廿二年現在地に移るまで存続した。
時、1982年、学制発布百十年に当り、流山市の教育関係者有志は、ここに記念碑を建立し、学制の原点に立ち教育の振興を願うものである。

昭和五十七年十一月
共立学舎記念碑設立実行委員会






以上です。

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