青い稲妻・松本匡史はかくも伝説なのか?(その3)

  • Miya
    2008年02月15日 10:34 visibility3080


松本匡史は早稲田大学で右打ちの二塁手として活躍。

東京六大学リーグ盗塁記録を塗り替え、早大の全日本大学野球選手権優勝に貢献した。

 

その俊足に目をつけたのが巨人長島監督だ。

77年のドラフトで巨人に5位指名されるが、当初、松本はプロ入りを躊躇する。

肩の脱臼など怪我が多かったことを不安に思ったようだ。

 

結局巨人の熱意に松本はプロ入りを決意するが、この時に両親の提案で怪我がなくなるようにと名前を哲(ただし)から匡史(読みは同じ)に改名している。

この頃から松本の野球人生には華やかな栄光につきまとう一抹の暗い影があった。

 

 

 

長島巨人にとって画期的な「機動力」として、ルーキーイヤーは鮮やかな印象を残す。

象徴的な試合が阪神戦でのひとコマ。1点を追う九回二死一塁から代走に起用され、すぐさま二盗に成功。

代打・山本功児のタイムリーで生還した場面は話題を呼んだ。

この年巨人は見事に優勝を果たした。




順調なスタートを切った松本であるが、3年目は一軍の試合に出場機会がない。

 

 

またもや脱臼した肩の手術で一年を棒に振ったのだ。

 

 

チームも5位と低迷し、シーズン終了後の秋に伝説の「伊東キャンプ」が行われる。

長島監督は「若手の意識革命なくして巨人の再建はない」と断言。

若手から少数精鋭の18人を選び、静岡県伊東市でキャンプを張って3週間の猛練習づけにした。

この時、これまでレギュラーのとれなかった松本には外野へのコンバート、スイッチヒッターへの転向という難題が課せられる。

これは脱臼癖のある肩を考慮し、同時に俊足を生かすための決断であった。

 

 

打撃も守備も基礎からやり直すようなもの。

まさしく「ゼロからのスタート」である。

松本は必死だった。

しかし、彼にとってはもう後がない選択でもある。

 

やるしかなかった。

 

 

時間を惜しんでマシンでの打撃練習、守備練習に励んだ。

 

 

 

もう、山の端に陽が沈みかけたころ、松本は打球を追って前後、左右へ動かされていた。ノッカーは長嶋監督。

ボールが見えなくなると石灰を塗り付けてノックは続いた。

と、突然、松本がうずくまった。グラウンドに押し付けた顔を上げようとしない。

練習すれども上達しない歯がゆさで、松本は声を押し殺し、泣いていた。

「どうした、マツ?泣いているのか」と長嶋監督。

「違います。これは汗です」と松本。

 

 

この猛練習を経て、翌年レギュラーの座についた松本は、3年目の1982年(昭和57年)、61盗塁で初タイトルを手にしたのだった。

 

 

務台達之のYG回顧より

http://www.giants.jp/G/museum/memories/person_07_10.html

(つづく)




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