ライオンズ史研究室「因縁の対決」�


 さて、これがライオンズ史研究室「因縁の対決」シリーズ、ラストです。
3、稲尾対野村
 野村はエリートではなかった。京都の山奥の町から南海へテスト生として入団。一升瓶に砂を詰めて振るなどのトレーニングをしていた。成績を残せず解雇通告もうけたが京都の田舎町から盛大に送り出され出てきたので今さら帰れないと残留を熱望した。
 キャッチャーへのこだわりがあった。その理由は当時南海は捕手の層が薄くキャッチャーならば何とかレギュラーに食い込めるのではないかと思ったそうだ。しかし2軍監督からファーストへのコンバートを薦められた、しかし当時の南海には飯田というファーストがいて、この人はなかなか試合を休まない人なので一軍定着は難しいと考えたが、とりあえず2軍で結果を残すためファーストコンバートを受け入れ一応結果を残した。
 もともと肩の強くなかった野村はこの時期に遠投をして肩を強くしていき急成長した。 そしてハワイキャンプで鶴岡を怒らせてキャッチャーのポジションを獲得したという。
 一方の稲尾もはじめは決してよい契約内容ではなかった。同期に畑というピッチャーが居り彼のほうが条件の良い契約だったそうだ。キャンプでは打撃投手を務め野武士軍団の主力打者相手に投げ込みをして成長していた。畑が速球派投手だったのでコントロール重視の投手の道を選んだ。

 話は野村の話に戻る。1957年本塁打王を獲得するも次の年からマークされ打撃が低迷する。そこで野村は1冊の本に出会う。テッドウイリアムスが投手は球種によって体の開きが違うと書いたものだった。それから野村は投手を研究し、投手の癖をつかむ事に成功し2割台の打率を3割に上げた。当時は来た球を打ち返す単純な野球だったが、球種を読むなどの緻密な野球を野村が生んだ。 WBCで世界一になったのもこの進化があったからではないかと綱島氏も推測していました。
 しかし野村は稲尾の癖だけはつかめなかった。 研究を重ね、インサイドに投げるときに癖が出ることをつかんだがオールスターで南海のチームメイトが稲尾にそのことを話してしまい、稲尾はヒヤッとしたそうだ。
 この二人の対決が野球の細かいやり取りなど新しい楽しみを生んだといっても過言ではない。

 以上が「因縁の対決」の内容です。 抜けている事、付け加えたい事ありましたらコメントください。もちろん感想も。 しっかりメモ取って聞いていたつもりですが何かしら抜けてると思うので・・・
 
 次回、ライオンズ史研究室は7月28日(月)16:30〜 「野武士軍団」私は仕事で行けません・・・
 西武ライオンズしか知らない私ですが今回の講義で偉大な先輩方がいて今の野球があると再確認しました。
 さて明日はそのライバル、ホークスとの戦い。ライバルのホークスが昔ライオンズのいた福岡に移転したというのもまた因縁なのでしょうね。古きをたずねて新しきを知る。とってもためになりました。



 う〜ん小さいですがピッチャー豊田泰光、キャッチャー野村克也の始球式のもようです。



















chat コメント 

コメントをもっと見る

通報するとLaBOLA事務局に報告されます。
全ての通報に対応できるとは限りませんので、予めご了承ください。

  • 事務局に通報しました。