☆渋谷監督勇退特別企画~山形県勢初の甲子園勝利校・日大山形~

 

山形県の中東部に位置する人口約25万人の市で、同県の県庁所在地であり、室町時代には出羽探題として奥州大崎より入部した斯波兼頼(しばかねより)がこの地に城を築き、神社仏閣を修復整備し、城下町を整えて発展の礎石をおき、江戸時代には商業都市として発展・繁栄、なかでも染料や口べにの原料として用いられていた紅花は全国随一の生産を誇り、関東・関西の各地に移出され、県庁所在地同士が隣接していることでも有名である(全国では山形市と仙台市、福岡市と佐賀市、大津市と京都市)山形市に、日本大学山形高等学校があります。

 

日大山形高校は、1958年(昭和33年)に山形学園山形第一高等学校として開校され、翌59年に日本大学の付属高等学校になりました。さらに1989年(平成元年)に日本大学山形中学校を設置して教育環境を整備しながら今日に至っており、中学校は山形県唯一の私立中学校、高等学校は山形県内で最も生徒数が多い高校で、「ボーイズ ビー アンビシャス」で始まる校歌も全国的に有名です。コースは、スポーツコース・進学コース・特進コース・中高一貫コースがあり、スポーツコースのほかは2年次から文系・理系にわかれ、スポーツコースは文系進学型のカリキュラムで履修され、どのコースも進路や学習習熟度に応じた学習指導が行われています。2011年の進学実績は、国公立大学合格者数延べ45名、私立大学合格者数延べ341名、日本大学合格者数202名となっております。

 

野球部は、学校創立と同じ1958年(昭和33年)に結成され、1963年(昭和38年)夏の大会に初出場。甲子園には春3回、夏15回、計18回出場し、通算成績は12勝18敗で、通算出場回数、通算勝利数は共に山形県内最多を誇っています。
また、日大山形は1973年(昭和48年)、それまで全国で唯一春の選抜出場がなかった山形県勢として悲願の初出場を成し遂げ、初戦で見事に境高校を 5‐2 で破りました。これは同時に山形県勢として春夏通じての甲子園初勝利となりました。
さらには、その年の夏の選手権にも出場し、初戦で鹿児島実を 2‐1 で破り、山形県勢として夏の甲子園初勝利を飾り、記憶に新しい2005年(平成17年)には夏の甲子園で山形県勢初となるベスト8入り(春は東海大山形が8強、羽黒が4強)を果たしました。
以上のように、日大山形は山形県の高校野球史において多大な功績を残しております。我らが広島カープの四番で、日本球界屈指の強打者である栗原選手もこの日大山形の出身であることは有名です。

 

ところで、先ほど記述したように日大山形は1963年(昭和38年)夏の大会に初出場しました。その時、マウンドに立ったのが青森山田高校の渋谷良弥監督でした。
渋谷氏は、1972年(昭和47年)に日大山形高監督に就任。つまり、山形県に選抜初出場、選抜初勝利、選手権初勝利をもたらした訳です。
日大山形では、2001年(平成13年)までの30年間采配を振るい、甲子園は夏に11回出場し6勝、春は3回で3勝を挙げました。勿論、我らが広島カープの四番で、日本球界屈指の強打者である栗原選手も渋谷監督の教え子です。
2002年(平成14年)3月に青森山田高校の監督に就き、2002年、2004年からは6年連続で夏の甲子園に出場。2005年には同校を初の選抜大会に導いています。
その渋谷監督が勇退を明らかにした。山形県の高校野球史に偉大な功績を残し、春夏通算で22回の甲子園経験を持つ名将が見られなくなるのは少々残念である。


 


 



以上です。

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