☆大会初の外国人選手~ジョン・ダン~

 


 


1.(左) 佐藤
2.(一) ジョン
3.(投) 山口
4.(三) 塩川
5.(右) 河野
6.(遊) 平川
7.(二) 足立
8.(捕) 出口
9.(中) 田島


 


上記は、1916年(大正5年)第2回夏の全国大会で優勝した時の慶応普通部のスターティングメンバーである。


慶應義塾の歴史は、1852年(安政5年)に福澤諭吉が開いた蘭学塾に始まり、1868年(慶應4年)に当時の元号にちなんで慶應義塾と名づけられ、その後、幼稚舎、大学部が発足し、1898(明治31年)には、幼稚舎・普通部・大学部からなる慶應義塾の一貫教育が完成し、その後も留学生派遣や国立大学に先んじた大学院設置、将来の社会に対応した新学部の設置など時代に先駆けた教育が行われ、戦後の学制改革に伴い、慶應義塾の新制高校を1948年(昭和23年)に開設、当初、慶應義塾第一高等学校、第二高等学校の名称のもと、仮校舎を東京都港区麻布新堀町に置くが、翌49年には両校を統合して慶應義塾高等学校と改称し、同時に校舎を三田山上に移転し、同年秋、米軍に接収されていた旧大学予科校舎が返還されるにともない、横浜市日吉に移転した。
入学者の半数強が外部受験者で、残りが中等部等からの内部進学者であり、1学年が18クラス、人数は700名を越す大規模校である。高校受験(外部受験)における募集枠は一般約330名、推薦40名である。ほぼ全員が大学受験をせずに慶應義塾大学に進学出来ること、また渋谷駅から東急東横線日吉駅まで20分程、大学に隣接していて交通の便が良いことから人気が高く、首都圏最難関校の一つに数えられています。
高校野球での校名表記は、原則として新字体を用いることになっているため「慶応」と表記されます。
慶應義塾高校は、政界・財界に多くの人材を輩出しており、国会議員(現役)、上場企業社長(現役)を務める卒業生の数は、全国の高校で最多といわれています。


改めてメンバー表をよく見ると、ジョン一塁手の名前がある。
近年は外国籍の選手が甲子園の土を踏むことが多くなってきたが、その第1号は第2回夏の大会に出場した、米国国籍のジョン・ダン選手なのである。
日本高野連のルールブックによると、高校野球の選手登録に国籍による制限はなく、卒業を目的として在校している生徒は大会への参加が認められている。国籍による制限は「教育の機会均等に反する」というのが、高野連の見解だ。現実的にはあり得ないが、ベンチ入りする選手全員が外国人でも問題ない訳だ。
この年、東京代表で出場した慶応普通部のジョン・ダン選手は、外国人という物珍しさからか、観客の注目を一身に浴びていたという。夏の大会のスターの草分けと言っていいかもしれない。ダン選手自身は大会4試合で17打数3安打と活躍したとは言い難いが、優勝メンバーとしての栄誉を手にすることができた。


それ以外でも、この年の慶応普通部は異色?であった。
外野手兼投手であった河野選手はドイツ人と日本人のハーフ。
エース兼主将であった山口昇投手は、慶応普通部ではなく慶応商工の生徒であったようだ。さらに、中学5年生で20歳だった山口投手は普通部の選手でありながら大学のレギュラーでもあり、早慶明3大学リーグ戦に出場していた。
当時は、明確な出場規定がなく、「慶応グループの代表だから」という理屈がまかり通る時代で、慶応普通部は慶応商工との合同チームで大会に臨み、大学野球に出場していた山口投手もまた、「慶応グループだから」という理屈が通ったようである。
山口投手は後に、「大学の選手も兼ねていたから、相手が小学生のように見えた」と語っているようだ。
この山口投手はその後、トヨタ自動車のディーラーである愛知トヨタ自動車の設立に携り、同社社長などを歴任した人物なのである。


 


 



以上です。

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