
☆熱闘千葉2025 始まる、夏 〜千葉県勢初の甲子園勝利校・県立千葉高校〜
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鶴丸 深志’
2025年07月12日 18:00 visibility202
私が師と仰ぐ篠山先生の「1931年(昭和6年)第17回全国中等野球大会の南関東予選は茨城県から茨城商業、茨城工業、千葉県からは千葉師範、千葉中学の4校が参加して、8月1、2日の両日で早大球場において争覇した結果、実力に勝る千葉中学がその栄冠を勝ち取った。ところで、千葉県4強の「關中」ってどこなんだろうか?と疑問が湧く。また、代表の千葉中学のユニフォームの千葉のマークが「CHIBA」でなく「TIBA」になっているのには歴史を感じずにはいられない。」という中等學校野球史の検証記事に触発され筆を執ることにした。
本題に入る前に、南関東大会の会場が早大球場?という疑問が湧いてくる。
その答えは、元々南関東大会は千葉市と水戸市で交互に開催されていたが、1928年(昭和3年)千葉中グラウンドで行われた南関東大会において、千葉県の長生中、成田中に勝ち地元の反感をかっていた茨城県の水戸商と千葉中の試合で投石騒ぎが起きた。さらに、翌年1929年(昭和4年)水戸商グラウンドで行われた南関東大会でも、前年の報復に燃える水戸商応援団は、水戸商が千葉中に 6 - 7 で敗れた瞬間グラウンドになだれ込み、千葉中ナインを校庭の片隅に追い詰め、警察も出動、検事局に連行される者が続出するという事件にまで発展した。そのため、翌年から持ち回り制度を止め、まず両県で予選を行い、上位2校を代表として送り、南関東大会は4校で神宮球場、早稲田の戸塚球場で行うことに変更したためである。
さらに続けると、その後、1934年(昭和9年)から再び開催場所を千葉と茨城での持ち回りに戻した。
ところが、翌1935年(昭和10年)に水戸水府球場で開催された南関東大会で、千葉中の遊撃手がイレギュラーバウンドの原因となった小石を三塁側に投げ捨てたところ、投石と誤解され、茨城工(水戸工)応援団が異常に興奮し、さらにそれが球場全体にまで広がり、閉会式も行えない状況になった。千葉中ナインは、警察官に守られて退場し、優勝旗は翌日に茨城県庁に受け取りに行った。
これらの事件により、予選の地区割りを変更し、翌年の1936年(昭和11年)から、千葉県は神奈川県・埼玉県と組んでの南関東大会へ、茨城県は栃木県・群馬県と組んでの北関東大会へ参加することとなった。
その後、1959年(昭和34年)から東関東大会と名称を変えて、再び千葉と茨城は雌雄を決することとなった。
これに類似するようなケースは、東海大会に参加していた静岡県と愛知県にもあった。
静岡県の静岡中(静岡)と愛知県の愛知一中(旭丘)の間には度々もめごとが起こり、静岡県は、1923年(大正12年)東京が単独代表となったのを機に、それまで東京と京浜大会を行っていた神奈川と組んでの神静大会、その後山梨が加わっての甲神静大会、先ほど記述した南関東大会編成変えで神奈川が抜けての山静大会と、地区をまたいでの複雑な動きをしている。
参考までに、地区をまたいでの大会は他に、福井県と滋賀県の福滋大会(1974年〜1977年)があった。
本題に戻ろう。
春夏通算での甲子園勝利数149勝、勝率.550を誇り、多くのプロ野球選手を輩出している「野球王国千葉」における選抜大会優勝は過去一度もなく、夏の全国選手権大会優勝は1975年(昭和50年)の習志野が最後で、半世紀、日本一がない。対照的に千葉の周辺都県は平成以降春夏ともに優勝旗を手にしている。千葉県勢の全国制覇が待ち遠しい。
千葉の高校野球は公立校が牽引した歴史が長く、伝統的に投手中心の守備的なチームが多い。「野球王国千葉」の礎を築いたのは、昭和中期の銚子商や習志野の公立校だという意見が大方だろうが、アタシは千葉中学(現県立千葉)が昭和初期にその礎を築いたと思っている。
その県立千葉高校の試合が観たくなり、夏の千葉大会1回戦が行われている浦安市運動公園野球場に向け、セカンドカーとして納車されたばかりのレクサスLBX“Elegant”を走らせた。
浦安市運動公園野球場の隣には、夢の国ディズニーランドが広がっている。夢なら、こちらの浦安市運動公園野球場にも球児たちの暑い夏の夢が満ち溢れている。
千葉県立千葉高校は千葉県千葉市中央区に所在し、1878年(明治11年)に千葉中學校として創立された歴史を有し、千葉県内屈指の進学校である。
千葉市中央区の位置をチーバくんで分かりやすく説明すると、「下あご」の部分である。
野球部は1897年(明治30年)に創部され、千葉県内では佐倉高校に次ぐ歴史を有する。ユニフォームは純白で、胸には野球王国の証「CHIBA」と大きく黒字で書かれている。
夏の全国大会予選には、千葉県勢としては銚子商、千葉師範に次いで、成田とともに1919(大正8年)の第5回大会予選(関東大会)に初参加した。結果は、初戦(準決勝)の水戸商に 3 - 12 で敗退となった。
夏の全国大会予選初勝利は、1921年(大正10年)の第7回大会予選(関東大会)で、真岡中(真岡)に 7 - 6 で勝利した。
夏の予選通算成績は162勝102敗である。
甲子園には夏のみ6回出場し、通算成績は2勝6敗である。
県立千葉といえば、千葉中時代の1935年(昭和10年)第21回夏の全国大会において、石川工(石川県立工業)に18安打の猛攻を見せ、16 - 9 で勝利し、甲子園初勝利をあげた。この勝利は千葉県勢としても甲子園初勝利であった。
また、翌年の1936年(昭和11年)第22回夏の全国大会においては、山形中(山形東)に 8 - 1 で勝利し、同校ならびに千葉県勢初のベスト8に進出したのである。準々決勝では、平安中(龍谷大平安)に 0 - 10 で敗れはしたが、全国から「千葉中強し」と評され、「野球王国千葉」の礎はこの頃から築き上げられたのである。
参考までに、戦前の千葉県勢甲子園出場校は千葉中が4回、關東中(千葉敬愛)が2回、千葉商が2回、千葉師範が1回である。尚、千葉県勢初の甲子園出場校は千葉師範である。
試合の方は、松戸・松戸国際・清水・沼南・沼南高柳・流山おおたかの森で構成された連合チームを相手に、2回表に1点を先制したが、3回裏に4点を奪われ逆転を許す。
4回表に2点を返して1点差につめよるが、その裏に1点を奪われる。
6回表に1点を返し再び1点差にすると、その裏からは左腕エースが登板、130km後半のストレートを武器に三振の山を築き無失点に抑えていった。
しかし、県千葉は7回以降チャンスをつくるも、あと1本が出ず、そのまま 4 - 5 で惜敗、関東の梅雨明け前に県千葉の短い夏が終わった。
とはいえ、スタンドには大勢の県千葉ファンが詰めかけ、選手の一挙手一投足に大きな声援と拍手を送り続けていた。県千葉は令和になっても多くのファンに愛されるチームであった。
ところで、2回表裏の攻撃前に校歌が流れるが、連合チームの場合はどうするのか?興味があった。答えは、2回以降毎イニング1校ずつ、給水タイム時には2校の校歌が流れた。
今回の連合チームには、夏の千葉大会準優勝経験のある沼南、つい最近まで何度か上位進出を果たしていた松戸国際の名前があり、単独チームで参加できないのが驚きであった。松戸国際といえば、日本陸上競技界の大谷翔平こと、村竹ラシッド選手の母校でもある。
戦国千葉の暑い夏の夢はまだまだ続く。
以上です。
- 事務局に通報しました。
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