☆野球殿堂 〜飛田穂洲と石井連藏〜

私が師と仰ぐ篠山先生の「六稜の星に輝く 北野高校野球部史」の記事に触発され、筆を執ることにしました。

 

北野高校と同じ1891年(明治24年)野球部創部で、関東の公立高校の中では最古の歴史を有し、関東の高校の中では3番目、全国の高校の中では7番目の歴史を有する、泣く子も黙る名門中の名門、水戸一高野球部には偉大なOBが2人いる。

余談ですが、この日、野球部員はランニング中にも関わらず、一人一人が足を止め、脱帽し、挨拶をして来た。「挨拶」には、「自分の心を開き、相手を認め、相手の心に近づく」という意味がある。

 

 

 

石井連藏 先生

2期にわたり早稲田大学野球部の監督を務め、厳しい練習を課すことから、選手たちから「鬼の連藏」と呼ばれたが、その結果、プロ野球で活躍する選手を数多く送り出した。


茨城県大子町出身。大子町といえば、袋田の滝と鮎の塩焼きかしら?

水戸一高ではエースとして、1949年秋季関東大会県予選決勝に進むが、水戸商に惜敗。翌1950年夏の甲子園予選でも北関東大会決勝に進むが、宇都宮工に完封負けを喫し甲子園出場を逃す。
1951年、早稲田大学に入学し投手として活躍する。4年時には主将を務めるとともに、秋季リーグ戦で首位打者と打点王を獲得。卒業後、社会人チームを経て、1958年に25歳の若さで早稲田大学野球部第9代監督に就任し、1963年まで6年間にわたって監督を務める。また、1988年に第14代監督に就任、7年間監督を務める。早稲田大学野球部で合計13年監督を務め、リーグ戦で4回の優勝を果たす。なお、早稲田大学野球部史上、監督を2度務めたのは、石井連藏氏のみである。 
監督退任後は、全日本大学野球連盟や日本学生野球協会の要職を務め、日米大学野球を創設するほか、学生野球界の発展に尽力した。

 

 

 

飛田穂洲 大先生

日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、「学生野球の父」と呼ばれる。また、精神を集中させ、全力を傾けて1球を投じる「一球入魂」を提唱したとされている。


茨城県大場村(現水戸市大場町)出身。水戸市大場町といえば、名門、大洗ゴルフ倶楽部の近くかしら?

1902年に旧制水戸中学(現水戸一高)に入学。4年時には主将となり、その時期「水戸中の黄金時代」と呼ばれた。
1907年、早稲田大学に入学。そこで終生の師匠と仰ぐ早大野球部創設者で初代部長の安部磯雄氏と出会った。安部氏から受けた精神的影響は大きく、飛田氏は自らの野球観を築いていく。二塁手として活躍し、5代目主将になる。しかし1910年、早大野球部は来日した米シカゴ大学との戦いで6戦全敗という記録的大敗を喫してしまう。飛田氏はこの敗戦の責任を取って、野球部の主将を辞任した。
1913年に早稲田大学を卒業。武侠世界社、読売新聞社に勤務後、1919年に早大野球部初代監督に就任した。ときに32歳。収入の大幅な減少は承知の上で野球の世界に戻ったのは、シカゴ大学に大敗したことが忘れられず、雪辱を果たしたいという思いが強かったといわれている。
飛田氏の課す練習は熾烈を極めたことで有名で、「千本ノック」という名称が生まれたほどだった。その結果、「早大野球部の黄金期」と呼ばれる一時代を築いた。そして1925年、来日した宿敵のシカゴ大学を 10 - 4 で破り、雪辱を果たして監督を勇退した。
1926年、朝日新聞社に入社。大学野球や中学野球に関する論評を書き続け、学生野球の発展と充実のために奔走した。
飛田穂洲氏は野球に取り組む姿勢について、「野球は単なる遊びごとであってはならない。野球から一つの人生をつかむ。そこに一球洗心とか一打入魂とかいう言葉が生まれる」と語ったという。
「一球入魂」という名言がいつどのように生まれたかは定かでないようだが、飛田穂洲氏の野球道の精神を如実に表す言葉といえよう。

 

この精神は、現在も水戸一高野球部に受け継がれている。

 

 

 

 

 

以上です。

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