「甲子園が割れた日-松井秀喜5連続敬遠の真実」(中村計著、新潮文庫)を読んで。

単行本としては、4年前に出た本ですからすでに読まれた方もおられると思います。たまたま出張先で覗いた本屋で平積みになっていたので買いました。大変おもしろかったです。


松井の5打席連続敬遠は、1992年夏の甲子園の明徳義塾ー星稜戦で起きた事で、大変な議論を呼びました。私は、その場をリアルタイムで見た訳ではありませんが、後でニュース等で聞いて「何て馬鹿なことをするんだ。」と明徳義塾に対して憤慨したことを覚えています。著者の中村さんは、ある程度年数をおいた上で、この出来事を丹念に追いかけています。その結論は、以下の言葉に集約されます。

「野球に純粋だったのか、勝負に純粋だったのか・・・」

もちろん、前者が星稜であり、後者が明徳義塾です。

たとえば、プロ野球の監督さんである西本さんは、松井5連続敬遠を「当たり前や。」といいます。

高校野球の監督さんでも、ノンプロ(社会人)の監督をつとめた人は松井5連続敬遠を、作戦として肯定的にとらえます。明徳義塾の馬淵監督もノンプロの監督経験者でした。当時のNHKの解説者の福島さんもノンプロの監督経験者だったので「残念」とはいいながらも、この作戦をむしろ擁護していました。

高校野球の監督さんで、高校野球しかしらない監督さんは、松井5連続敬遠に対して否定的でした。星稜の監督の山下さんも高校野球しかしりません。当時の朝日放送の解説者の松岡さんも高校野球の指導者しかしなかった人で露骨にこの作戦を批判したとのことです。


・その他、本の中でおもしろかったところをいくつか紹介します。

*5連続敬遠をした明徳の河野投手は、投手としての自分の才能に見切りをつけていた。実際、2年生の時に、自ら申し出て外野手に転向している。ところが、投手陣に不安があるからと、予選直前に投手に復帰していたという事情があった(背番号も8のままだった)。河野は「投手としてのこだわり(プライド)がなかったから5連続敬遠できた」という趣旨のことを言っています。「勝負したかった」なんて気持ちはなかったとも。

*星稜は、北陸地区でダントツの強さを誇っていて、予選レベルの相手校は、松井を敬遠しても、5番以下の打者に打たれてしまうから「松井連続敬遠」のような戦法をとることはなく、星陵もそのような経験がなかった。しかし、甲子園に来た明徳義塾の馬淵監督から見れば、
「3番山口、4番松井さえ抑えれば他はたいしたことない」と見え、勝つための「松井連続敬遠」という策が生まれた。上述の福島さんも、松井を敬遠させないためには、山口・松井の打順を逆にしなければならないのに、それをしない山下監督に対して、「山下さんは野球を知らないのかと思った」という趣旨のことを述べています。

*馬淵さんは、加えて、「松井が打つと、星稜全体が活気づく」ということもあって、松井に打たせなかったようです。5回の敬遠の中で、ランナーなしの場面とランナー1塁の場面が1度ずつあったのですが、それでも敬遠させたのはそのためだったようです。

*明徳義塾は、高知でも特に僻地にあり、「全寮制の24時間教育」学校で、外との接触も極端に少なく、野球部は、馬淵さんを長とする一種の「カルト」的な状態にあった。

*ヤンキースに行った松井が、A.ロッドの後の5番を打って、A.ロッドが敬遠されたときの気持ちを聞かれて、「僕はうれしいんですよ、前のバッターが敬遠されると。」「だって、チャンスで回ってくるということじゃないですか。・・・A.ロッドと松井、どっちで勝負するかといったら、僕でも、そら松井でしょうって思いますもん。そうなったら僕は僕で、はいはいいいところで回ってきましたよって思うだけで・・」
・・・・松井、あんたはやっぱり大物や!

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