惜別!去り行く虎戦士を振り返る�


2004年のドラフト会議。
この年の阪神は、異例にも9人という多くの選手を指名した。
自由獲得枠で、岡崎太一捕手
同じく自由獲得枠で能見篤史投手
4巡目 橋本健太郎投手
5巡目 大橋雅法捕手
6巡目 赤松真人外野手
7巡目 高橋勇丞外野手
8巡目 辻本賢人投手
9巡目 玉置隆投手
10巡目 水落暢明投手
そして、この中から、3人の虎戦士が、2007年を持って縦縞のユニフォームを脱ぐこととなった。
シリーズ「去り行く虎戦士を振り返る」4回目はこの3選手に触れてみたいと思う。















水落暢明投手(自由契約)

2004年のドラフトで10順目で阪神から指名を受けた無名の隠し玉投手だった。
ファームでは登板する機会を時折得たが、故障が多く、今季も2軍で6試合に登板。
しかし7回7安打7死四球7失点と散々な内容に終わり、結果を残せず、3年で自由契約通告。
引退を決意した。
彼を語るのであれば、入団までのその経緯というものであろう。
中学時代に速球派投手として注目され、京都の名門校である、平安高等学校に進学。
しかし、1年の夏に練習中に熱中症で倒れ、集中治療室に入るほどの重症を負った。
そのトラウマから野球の継続はおろか、学校へ行く事すら出来なくなり平安高校を中退。
母親の仕事を継ごうと美容師の道へ進むことを決意した。
だが、高校だけは卒業しておこうと、実家から近くの大阪府立信太高等学校に1年遅れの形で編入した。
野球部には入らないと決めていたが、楽しく練習する公立高校野球部のその練習を見ているうち、野球の虫が再び疼きだし、野球決別の決意が崩れ、結局入部してしまう。
それまでの府立信太高野球部は、創部9年で公式戦は、わずか1勝だったと言う。
しかし、水落の入部後、府大会ベスト16の成績を残す強豪にのし上った。
同級生より1歳年上の水落は、規定により、3年時には高野連の規定で公式戦には出られなかったが、部員と共に練習に励んだ。
そんな彼をこっそりと見ていたのが、池之上スカウトと畑山スカウトだったという。
2004年のドラフトで指名され、入団。結局、実力を示すこともなく、球団から戦力外通告を受けたが、そのまま現役引退して阪神の打撃投手に転身することとなった。
今後は裏方として、虎戦士達を支えていくこととなる。
同期入団の辻本賢人とも仲が良く、玉置隆と3人で行動することが多かった。
また、実兄の水落朋大氏も2008年からセリーグ審判員となり、兄弟で裏方として日本プロ野球を支えていくことになる。





















大橋雅法捕手(自由契約)

大阪・北陽高校から2004年ドラフト5順目で指名を受け阪神タイガースに入団した。
岡田監督と同じ北陽高出身ということでも話題になった。
高校時代、甲子園出場は残念ながら果たしていない。
しかし、通算43本塁打を放ち、常に1発を狙えるパンチ力で、関西では打撃が魅力の高校生捕手として注目されていた。
肩はあまり強い方ではなく、内野を守ることもあった。
高齢化が進む阪神の捕手陣の中で、次世代の打てる捕手として期待されていたが、もともと、肩がそれほど強くなく、体力強化の一環から、ファームの遠征に帯同する機会も少なく、鳴尾浜に練習を見学に行くと必ず居残り組の中にいた。
その練習の中で、スローイングの矯正を図ったり、外野にもチャレンジするなど、飛躍のためのチャンスを常にうかがっていたが、数少ない試合出場のチャンスにおいて、プロの壁にぶち当たり、自慢の打撃をなかなか披露できず、特に去年はヒットすら一本も打てなかった。
結果的に売り物の打撃でも結果を残せず、次世代を狙う阪神の厚い捕手層の争いで狩野、小宮山に続くことが出来ず、さらに後輩の橋本良、清水などにもその出場の機会を奪われ、捕手争いに敗れた形となった。
打撃が魅力だったはずが、逆に打撃が弱いとも判断され、浅井のように野手転向という方向にも進めなかった。
2007年10月5日、球団から戦力外通告を受けた。戦力外後は、11月17日に第1回12球団合同トライアウトに参加。
しかし、採用の話はなく、プロ野球人生に終止符。現在一般企業への就職を希望し、就職活動中だという。
鳴尾浜では、ちびっ子たちに人気の選手だった。
練習前の時間帯には気さくにサインにも応じ、鳴尾浜を訪れるファンとっても大橋は親しみの持てる選手であった。
加藤コーチとの熱血ノック。筒井コーチを相手にしたフリーバッティング。思い出すシーンはいっぱいある。
少しずつでもプロの体になってきたかなと思っていただけに、高卒3年間での自由契約は惜しい気もする。
まだまだ若く、新たな道で第2の人生をがんばって欲しい。

















赤松真人外野手(FA補償で広島移籍)

「赤星みたいにダイビングとかせずに、走って、必ずきちんと落下点に着いてフライを取りに行く」
福本豊氏のコメントである。福本氏は、赤松真人外野手の外野守備を現役選手でナンバーワンと評価していた。
平安高校から立命館大学をへて、2004年ドラフト6順目で阪神タイガースに入団した。
打撃は非力であったが、大学4年に3割を超えるバッティングを示し、阪神はその守備力と走力に着目し指名に踏み切った。
平安高校時代も全てのポジションをこなせる選手であったらしいが。2年の時に投手(兼外野手)として春の甲子園に出場し、ベスト8になっている。
立命館大学で、野手に転向。
4年の春に1試合5盗塁の関西学生リーグタイ記録を達成。50メートル走5秒6の脚と遠投120メートルの肩を持つという。
出塁してからは果敢に盗塁を狙い、成功率も高いがポカも多かった。
ポスト赤星憲広として活躍が期待されていたが、2008年1月6日に、広島から阪神へFA移籍した新井貴浩内野手の人的補償で、広島に移籍することが決まった。
投手を優先的にプロテクトする方向性から、その枠数28人に泣いた形となった。
赤松は立命館大学という学力名門の大学を卒業しながらも、その言動は楽しく、マスコミやファンを喜ばせ、時にはハラハラさせた。
歌手の倖田來未とは中学時代の同級生。
その為、倖田來未のブレイクにあわせ、「プロ野球界のエロカッコいい選手」「倖田來未の同級生」の異名でまずマスコミを騒がせた。
立命館大学産業社会学部産業社会学科では倉木麻衣とも同じクラスであったらしい。
2007年シーズンオフにはさまざまな話題を振りまいた
秋季キャンプでは、盗塁のサインを出したら、自重。おもむろに次の球の前に走塁用手袋をはめ、盗塁のサインがバレバレで警戒されて走れない。
出塁した瞬間に直ぐに手袋をしなかった赤松の凡ミスはプロではないと岡田監督の怒りを買った。
また、独身寮を退寮するのは、交際中の女性と同棲生活を始めるからと自ら公表、異例の同棲宣言をして、周りの失笑を買い批難された。
(12月5日にその女性と入籍したことを12月14日更新の自身のブログで発表)。
タイガースの中でも話題になる男として、その成長を楽しみにしいてただけに、今回の突然のFA補償で広島移籍は、非情に残念。
さらに打撃力が向上した暁には、とてつもないリードオフマンとしてカープを引っ張っていく選手としての力を充分に秘めている。
広島での活躍に期待したい。






























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