☆ぶらり放浪記 創部88年目の悲願~成東高校~

 

 

 

3連休の中日、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 

 

さて、皆さまの中で、成東(なるとう)高校をご存知の方はどのくらいいらっしゃるでしょうか?

 

千葉県東部に位置し、九十九里浜が太平洋に面する人口約59,000人の山武市の小高い丘の上に、成東高校があります。

成東高校は1900年(明治33年)に創立された、山武地区屈指の文武両道の名門校です。

野球部は、1902年(明治35年)に千葉県内では佐倉高校、千葉高校、成田高校、銚子商業、木更津高校、安房高校、茂原農業に次ぎ、佐原高校、長生高校と時を同じく創部された。

夏の大会予選には、1922年(大正11年)第8回大会予選(関東大会)に初参加し、成田中に 16 - 5 で勝利した。

甲子園には1989年(平成元年)第71回夏の選手権大会に一度だけ出場し、通算成績は1勝1敗です。

 

成東高校は野球部の長い歴史の中で、幾度となく優勝候補の一角に挙げられてきましたが、平成元年の初出場まではあと一歩のところで涙を呑んできました。

1971年(昭和46年)夏の千葉大会は、センバツでベスト4に入り、春の県大会も制した木更津中央(現・木更津総合)が優勝候補の筆頭であった。

しかし、大会に入ると2人の超高校級の投手に注目が集まった。

それは、成東の剛腕投手・鈴木孝政(元中日)と、銚子商の好投手・根本(元大洋)であった。

二人は2年生ながら、豪速球に加えコントロールも良く、共に無失点で勝ち進み(準決勝で勝った2校が)、東関東大会に駒を進めた。
ところが、鈴木は東関東大会の会場である水戸へと出発する当日、スクイズ練習のため打席に入っていたが、右上腕に投球が当たり、思うように動かせなくなってしまった。
東関東大会初戦の竜ヶ崎一戦の先発には及川をたて、その及川も好投を見せたが、接戦の末、成東は敗れてしまった。
一方、銚子商の根本は取手一に完封勝ち、代表決定戦の竜ヶ崎一戦の1失点のみで甲子園出場を決め、両者の明暗を分ける形となった。
そして、甲子園に出場した銚子商はベスト8まで勝ち進んだのである。

 

ライバル二人が3年生になった1972年(昭和47年)、春季県大会の決勝で両雄が激突した。

成東は、春のセンバツでもベスト4入りした銚子商を 2 - 0 で下し、春の千葉を制した。
春季関東大会に出場した成東は、センバツで準優勝した日大三をも下し、見事に準優勝を飾った。
鈴木が登板した試合では負けることがなく、成東が甲子園に一番近いと言われた。

迎えた夏の千葉大会でも、成東と銚子商は予想通り両投手の活躍で順当に勝ち上がった。

しかし、前年とは違い、両校は準決勝での直接対決となり、どちらかが敗退することとなる。

千葉大会準決勝の会場となった千葉市の天台球場は、球場始まって以来という3万の大観衆となった。センバツでもベスト4に入った銚子商と剛腕・鈴木投手の成東の激突で、札止めになってもファンは後から押し寄せ、入口のシャッターも壊されてしまうほどの人気となった。

試合は予想通り、鈴木と根本の息づまる投手戦となり、両チームともチャンスを掴むことすら難しい展開となった。
0 - 0 で迎えた8回裏、1死から打者根本は追い込まれてからウエスト気味の鈴木のストレートを大根切りで左中間深く弾き返し、三塁打となった。
1死三塁。この試合最初で最後かもしれないチャンス到来。絶好のスクイズのチャンスでもあるが、鈴木の豪速球はバントしても小フライになってしまう可能性が強い。
銚子商はカウント 1 - 2 から内角高めの速球をスクイズしたが、やはり小フライとなり、三塁走者の足も止まった。

しかし一塁側にダッシュしていた鈴木は逆モーションとなり、打球は鈴木の右にポトリと落ちた。三塁走者の根本が両手を上げてホームイン。

今でも千葉県球史に残る名勝負は銚子商が 1 - 0 で勝利した。
銚子商と成東の戦いは、この年の1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)まで4年連続1点差で成東が敗れることとなる。(銚子商 1 - 0 成東、銚子商 1 - 0 成東、銚子商 1 - 0 成東、銚子商 2 - 1 成東)
そしていつしか、人々は成東高校を「悲運の成東」と呼ぶようになった。

 

それから時が経ち、迎えた1989年の7月27日、元号が平成に変わった千葉県大会準々決勝の組合せは、銚子商と成東の試合となった。

因縁の対決は、予想通り手に汗握る大熱戦となった。
この年の成東には、大会屈指の大型右腕・押尾健一投手(元ヤクルト)がいた。
延長13回の末、2 - 1 で銚子商相手に劇的なサヨナラ勝利を収めた。
続く準決勝では、習志野を 6 - 2 で下し、拓大紅陵との決勝戦を迎える事となった。

決勝戦も緊迫した投手戦となり、一進一退の攻防の中、成東が何とか1点をもぎ取り、逃げ切りの様相を呈してきた。

1点差で迎えた9回裏、最後のバッターもツーストライクまで追い込んだ。
「あと一人」から「あと一球」へと応援の声が変わった。
押尾は、キャッチャー八角のサインをのぞく。
カーブのサインだった。
押尾は大きく頷いた。
押尾は渾身のカーブを投げ込んだ。
そしてバットは、大きく空を切った。
・・・一瞬、球場全体の時間が止まったかのようだった。
ほんの少しの間をおいて、球場全体が大歓声に包まれた。
波打つスタンド、あちこちで抱き合い、涙し、万歳の嵐が巻き起こっていた。
「悲運の成東」が創部88年目にして初の甲子園への切符を手にした瞬間であった。

閉会式で、松戸健千葉県高野連会長から行木主将に優勝旗が渡されたとき、再び球場全体が大歓声に包まれた。

この松戸氏こそが、元・成東高校の監督で、鈴木孝政を育てた人物であり、長年甲子園への夢を見続けてきた人物であったのだ。

 

 ~九十九球史より一部引用~

 

 

 

悲願の甲子園初出場となった成東高校ですが、地元の盛り上がりは凄まじく、地元の大応援団が甲子園に押し寄せ、そのなかには「神様・仏様・押尾様」と書かれた旗を持った年配の女性もいた。

地元の野球熱の高さと、地元の人々から愛されている成東高校を垣間見た瞬間であった。

 

甲子園での初戦の相手は強豪・智弁和歌山であったが、県大会同様の戦いで延長11回の末、見事に 2 - 1 で破り、甲子園初出場ながら初勝利を飾り、成東高校野球部の歴史に新たな一頁を刻んだのである。

 

 

 

 

 

 

以上です。

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