「サワムラ」は野球人にとって・・・沢村栄治の伝説。(その4)

  • Miya
    2019年05月05日 14:16 visibility4050

「サワムラ」は野球人にとって・・・沢村栄治の伝説。(その1)

https://labola.jp/blog/user/62893/6711673
「サワムラ」は野球人にとって・・・沢村栄治の伝説。(その2)
https://labola.jp/blog/user/62893/6647617

「サワムラ」は野球人にとって・・・沢村栄治の伝説。(その3)

4)https://labola.jp/blog/user/62893/6514505

上記の(その3)が「2010年5月22日」の投稿なので9年ぶりの続編です。(笑)

これまで話が超スローペースなので、今回Wiki引用で急ピッチです。

私がこの原稿で書きたかったことは、沢村投手の栄光物語ではないので。

 

 

「1934年メジャーリーグ選抜チーム相手に快投」
1934年の夏の大会終了後に京都商業を中退(現在の高校3年生に相当する年齢)。その年の11月に開催された読売新聞社主催の日米野球の全日本チームに参戦する。5試合に登板(4先発)したが、中でも11月20日、静岡県草薙球場で開催された試合では、7回裏にルー・ゲーリックにソロ本塁打を浴びたのみで、メジャーリーグ選抜チームを8回5安打1失点と好投した(スコアは0対1。ゲーリッグの一発が決勝打)。これ以外の4試合では滅多打ちにあって沢村自身0勝4敗に終わったが、この年の日本選抜対メジャーリーグ選抜の試合が日本の0勝16敗に終わったため、この快投は現在でも日本で語り草となっている。もっとも、ベーブ・ルースは、沢村を賞賛する一方で、「丁度バッターボックスに入って投手に面すると太陽の光源が真正面に見えるのでまぶしくて仕方がなかった」とコメントしている。

 

草薙球場にある澤村投手のモニュメント

 

「1934年プロ入り」

1934年暮れ、全日本チームを基礎としたプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(東京巨人軍を経て現・読売ジャイアンツ)の結成(正式な設立は12月26日)に参加した。学校を中退してプロ入りしたのは、野球部員による下級生への暴行事件が明るみに出て、連帯責任で甲子園出場が絶望的になったためであったとされる。

 

 

「1935年アメリカ遠征」

巨人軍はまだ国内で唯一の職業野球クラブだったので、プロ野球リーグが始まる前は他に対戦する相手がなく、野球の本場であるアメリカの各地を飛び回って遠征試合をこなしていた。1935年第一次アメリカ遠征に参加し、21勝8敗1分けの戦績を残す。その終盤の6月、ミルウォーキー・レッドソックスとの対戦前に、ある中年男性が外野席から飛び降りてサインをしてもらいたいと訴え、沢村は何気なしにサインに応えていた。ところが、試合後その男性がベンチにやってきて「スクールボーイ(沢村のあだ名)をいつ渡してくれるのか?」と問い合わせに来た。鈴木惣太郎マネジャーがその書類を見ると、セントルイス・カージナルス(ピッツバーグ・パイレーツと言う説もあり)のスカウトが使う選手雇用のための契約書だった。その後、半ば強引に契約を迫ったものの、鈴木は「ジャイアンツはアメリカの野球団体に加盟していないので、君がコミッショナーに訴えても無駄」ときっぱり断った。

 

 

「1936年プロ野球黎明期」

プロ野球リーグが開始された1936年秋に中山武とのバッテリーで史上初のノーヒットノーランを達成する。同年12月、大阪タイガースとの最初の優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらした。1937年春には24勝、防御率0.81の成績を残して、プロ野球史上初となるMVPに選出された。さらにこの年は2度目のノーヒットノーランも記録するなど、黎明期の巨人・日本プロ野球界を代表する快速球投手として名を馳せた。特にタイガースの豪打者である景浦將とは良きライバルで、名勝負を繰り広げてファンを沸かせた。

1936年夏 1勝1敗 投球回17.0 被安打16 数奪三振11 防御率2.12

1936年秋 13勝2敗 投球回120.1 被安打63 数奪三振112 防御率1.05 

1937年春 24勝4敗 投球回244.0 被安打138 数奪三振196 防御率0.81

1937年秋 9勝6敗 投球回140.0 被安打99 数奪三振129 防御率 2.38

 

 

「1938年〜1940年日中戦争に従軍」

徴兵によって甲種合格の現役兵として帝国陸軍に入営、1938年から満期除隊の1940年途中まで軍隊生活を送り日中戦争(支那事変)に従軍。前線で手榴弾を多投させられたことから生命線である右肩を痛めた。また戦闘で左手を銃弾貫通で負傷、さらにマラリアに感染した。復帰後はマラリアによって何度か球場で倒れたり、右肩を痛めたことでオーバースローからの速球が投げられなくなったが、すぐに転向したサイドスローによって抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球を披露し、3度目のノーヒットノーランを達成した。

1938年 成績なし

1939年 成績なし

1940年 7勝1敗 投球回79.1 被安打44 数奪三振31 防御率 2.59


「1941年〜1942年軍隊へ戻り、1943年公式戦最後の出場」

その後、応召により予備役の兵として軍隊に戻り1941年終盤から1942年をすべて棒に振り、さらにはサイドスローで投げることも出来ず、肩への負担が少ないアンダースローに転向した。しかし、制球力を大幅に乱していたことで好成績を残すことが出来ず、1943年の出場はわずかだった。投手としては、1943年7月6日の対阪神戦の出場が最後で、3イニングで8与四死球と2被安打で5失点で降板となった。公式戦最後の出場は同年10月24日、阪神戦の2-2で迎えた11回表、6番・青田昇の代打で三邪飛であった。

1941年 9勝5敗 投球回153.2 被安打108 数奪三振73 防御率 2.05

1942年 成績なし

1943年 0勝3敗 投球回11.0 被安打17 数奪三振2 防御率 10.64

 

 

「1944年巨人から解雇される」

1944年シーズン開始前に巨人からついに解雇された。移籍の希望を持っていたが、鈴木惣太郎から「巨人の澤村で終わるべきだ」と諭されて現役引退となった。その後、南海軍から入団の誘いがあったが、固辞。

 


「1944年12月2日屋久島沖西方で戦死」
1944年10月2日に2度目の応召。現役兵時代を含め3度目の軍隊生活を送る。同年12月2日、フィリピン防衛戦に向かうため乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ海軍潜水艦「シーデビル」により撃沈され、屋久島沖西方にて戦死。27歳没。

 

 軍隊時代の沢村。右は阪神の小川年安。

 

 

職業野球通算63勝22敗、防御率1.74。戦死後の1947年7月9日、巨人は沢村の功績を讃えて背番号14を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定した。また、同年に沢村の功績と栄誉を称えて「沢村栄治賞」(沢村賞)が設立され、プロ野球のその年度の最優秀投手に贈られることとなった。

 

吉原正喜捕手(右)と。

 

 

 「サワムラ」は野球人にとって・・・永遠の憧れである。

あの江川卓ですら自身が生涯獲得できなかった「沢村賞」を欲しくてたまらず今だに悔いを残していると知り、驚いた。

 

しかし、沢村栄治の伝説とは、決して栄光の歴史ではない。

 

京都商業学校卒業後には慶應義塾大学への推薦入学がほぼ決まっていたが、巨人オーナーの正力松太郎が強引に口説いて同校を中退させて巨人入りさせた。正力は「一生面倒をみる」とまで言ったという。しかし、巨人は戦地の前線で手榴弾を多投させられたため肩を負傷して帰った沢村を解雇し、約束は守られなかった。 NHKのEテレで放送された「先人たちの底力知恵泉・選『野球が愛されるわけ 沢村栄治の挑戦』」によると法律で学生が日米野球に参加できなかったため中退したとしている。

 

2度も召集を受けたのは学歴が中等学校(旧制)中退であったからという説をとれば、中等学校を中退しての巨人入りは沢村のその後の運命を左右してしまったと言える。沢村は巨人から解雇を告げられた際、さすがに気落ちし、父親に「大投手などとおだてられていい気になっていた、わしがアホやったんや」と語ったが、自分を責めるだけで正力や巨人に対する恨みごとは言わず、入営時には笑顔を見せていた。また、沢村の父親である賢治は、戦後のインタビューで、「栄治は中等学校中退だから。もし、卒業していたら、慶大に行っていたら、こんなに何度も(召集が)こなかった。すべては私のせいです」と涙ながらに繰り返した。


そう、沢村の歴史とは戦争に巻き込まれ、死神に魅入られたように何度も召集され、最後には命を落としてしまった悲劇の歴史である。

我々は戦争のない世界を守らないといけない。

平和を、野球ができる幸せを、忘れてはならない。

「沢村賞」とはそういう祈りが込められた賞であると思う。(了)

 

 

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