☆白球の残像 ~消えた甲子園出場校・銚子西~

 

2008年に銚子市立銚子高校との統合により、32年の歴史に幕を閉じた銚子市立銚子西高校。校名が消えても、あの夏の野球部の快挙は今も語り継がれている。

 

1981年の夏、千葉大会の決勝に進出したのは、過去9回の甲子園出場経験を持つ銚子商業と創部5年目の銚子西であった。
銚子西は、これまで「出ると負けの一回戦ボーイ」。前年まで夏の県大会は未勝利で、銚子商の実績とは天と地ほどの差があった。
その決勝戦、最後は銚子西の主戦・平山投手100球目のカーブを銚子商の主砲・田中が引っぱって平凡な一塁ゴロ。平山がベースカバー、トスされたウィニングボールをしっかり握りしめたその手を高々とかざして銚子西の甲子園出場は決まった。大波乱の展開は、誰もが予想していなかった。
銚子商は3安打、1四球、銚子西は8安打、2四球。8安打のうちなんと7本が右方向におっつけたものだった。決勝点となったトラの子の1点は序盤の3回に挙げたもの。2番・野口が右前安打で無死から出塁すると次打者のバントで2進。ここで4番・主将の越川が2ストライクを取られながらも一塁線を破る。「最後までボールに食いついて行け」といった矢部監督のアドバイスが実った執念のタイムリーだった。7回、8回とそれでもピンチは訪れた。7回は一死1、2塁。宮内淳のライナーは左前に飛んだ。2塁走者は3塁を回り本塁に突入した。左翼・野口のボールはワンバウンドで捕手・越川のミットに。体当たりする走者・田中ともつれたがボールは離さなかった。
8回は一死3塁。打者・竹中はスクイズの裏をかいて初球強打。だが平山の差し出したグラブに収まる投ゴロ。銚子商、9回の攻撃もすでに二死、ここまでくれば勝利は固い。ベンチに座っていた控えの選手たちは最前列にやってきた。「まだ立つんじゃない。座っていろ」矢部監督は最後の最後まで気負わなかった。「あの銚子商の強力打線がいつ爆発するか、それだけがこわかった」白髪に手をやる矢部監督はベンチで指揮をとって、ジワリジワリとチャンスの糸口を作り、反撃してくる銚子商のしぶとさを最後まで警戒していたのだ。市立銚子で10年間監督をつとめ銚子西開校「昭和51年」の翌年、赴任したベテラン監督。銚子商とは市立銚子時代、決勝で相まみえること2回、甲子園を目の前に敗れている。「甲子園が、こんな形で実現するなんて夢のようです」。選手たちが一様に驚きの表情を見せる。矢部監督にしても全く同じ感慨だったろう。「練習はとにかく一生懸命やりました。私は子供たちの個性をうまく引き出すことだけを考えた」平山投手は1年生のときは滅法良かった。「この投手なら公式戦でも何回かは勝てるのでは・・」勝つ喜びを知らない選手たちに、勝利の快感を味あわせたかった。それが2年になると平山投手は肩を壊してメチャクチャ。投法を幾分サイド気味に変えても球威は戻らなかった。決勝戦は1球、1球ていねいに投げた。「三振も取れる子です。でも強打の銚商相手、それで打たせるピッチングに活路を見出したのでしょう」と矢部監督はバッテリーとそれを支えたバックの堅守を讃えた。「本当に優勝したんだなあ。ウソみたい。まだ明日もゲームがあるみたい」無欲で掴んだ甲子園。銚子西の快挙は気負いを捨てたナインの健闘がもたらしたものといえるだろう。

 

 

銚子西高校は、1976年(昭和51年)に銚子市2校目の市立高校として開校した後、2008年(平成20年)に銚子市立銚子高校と統合された。
野球部は、1977年(昭和52年)に創部され、夏の予選には同年の第59回大会予選に初参加した。結果は、1回戦で成田園芸に 2 - 15 で敗退した。
銚子西の校名で臨んだ最後の夏は、2007年(平成19年)第89回大会予選であった。結果は、1回戦の銚子水産には 8 - 0 で勝利を挙げた。しかし、2回戦の若松には 0 - 4 で敗退した。

夏の予選通算成績は、45勝30敗、優勝1回、4強2回、8強1回であった。

 

 

 

 

 

以上です。

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