球聖 久慈次郎について

盛岡という街の名前はロシア語の様だとユーミンが「緑の街に舞い降りて」という歌で確か?そうゆう歌詞が有ったと記憶している。

 

東に姫神山、西に秀峰岩手山を擁し、市内には清流北上川とその支流雫石川が流れる、風光明媚は岩手県の県庁所在地で、人口は約28万人、岩手県の内陸部の都市で新幹線が北海道まで延びるまでは、北の玄関口となっていた。

 

そんな環境の中に盛岡一高が有る。

1880年(明治13年)創立、輝かしいれきしかと伝統を誇る、岩手県でも偏差値は70と極めて高い。

 

久慈次郎は青森市で生まれ、盛岡一高に在学、在学中は野球部で捕手を守った。

 

その後は早稲田大学の商科に進み、飛田忠順氏(穂洲)氏に心酔し、キャプテンシーを発揮して当時既に「捕手の神様」と言われた。

 

その後社会人の函館太平洋倶楽部でプレーした。

1934年アメリカ選抜チームが来日するために結成された全日本チームに招聘された久慈次郎は、沢村栄治とバッテリーを組み、静岡の草薙球場でアメリカチームをゲーリックのホームラン1点に抑えた。

沢村栄治が久慈のサインに1回だけ首を横に振った場面、マウンド上に久慈が行って沢村と打ち合わせをして投げた1球だった。

 

その後、プロの大日本東京倶楽部に誘われたが、同年に函館が大火に見舞われた為、どうしても函館を離れる気にはなれずにプロ入団を断っている。

 

1939年に札幌市の円山球場での札幌倶楽部の一戦、当時久慈はプレイングマネージャーをやっていた。

久慈が敬遠で1塁へ歩く途中に次打者へ指示を出そうとして、ホームベースで上まで戻った時に札幌倶楽部の捕手吉田がセカンドランナーを牽制するために投げようとしたボールが久慈次郎のこめかみに当たり、ホームベース上に久慈次郎は倒れてしまい、その2日後に頭蓋骨骨折による脳出血で帰らぬ人になってしまった。

 

球聖と呼ばれる久慈次郎、昭和34年に野球殿堂入りが出来て最初の年にその対象者となったのだ。

 

白堊の学び舎の熱球史、久慈次郎が没後86年目であるが40歳で亡くなられたことは大変残念なことだと思うのは私だけであろうか?

 

あっ!そう言えば、今思い出してしまった。

 

私が高校時代に初めてヒットを打ったのも盛岡一高のグランドだった。ライト前の当たり損ないのポテンヒット、きっと久慈次郎さんが見ていたら大笑いされていただろうな。

 

☆白堊の熱球譜 盛岡一高 より引用。

 

 

 

 

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