マシンガン打線
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コージ苑
2008年05月02日 08:27 visibility1259
甲子園は連日満員。うらやましい限り。
横浜スタジアムも優勝の年は毎日満員だった。
雨の今日、あの頃にプレイバックしたくなってある文献を読み蘇ってきたので抜粋してみました。
マシンガン打線の大きな特徴は、先頭打者・石井琢朗および2番・波留敏夫の出塁率の高さと足の速さ、3番打者・鈴木尚典の選球眼とバットコントロールの良さ、4番・ロバート・ローズの得点圏打率の高さ、5番・駒田徳広の満塁時の異常な勝負強さ、さらには下位の佐伯貴弘、中根仁、進藤達哉、谷繁元信など、上位に比べ打率こそ低いもののチャンスの場面で勝負強い打者が安打を積み重ねていくことで、時に1イニングで試合の趨勢を決定付けるほどの大量得点を奪ったことにある。この打線は、本塁打こそが大量得点へのいちばんの近道であり、それゆえ究極的には長距離打者を並べる打線がもっとも破壊力があるという多くの「打線観」とはべつの価値観を提示することに成功した。つまり、選球眼がよく凡打の少ない中距離打者を並べることによっても、最強の打線を作りうることを証明したのである。
マシンガン打線は各打者がアウトになる確率が低いことから、1イニングの攻撃時間が長くなる傾向にあり、結果的に相対する投手を精神的に追い詰めると同時に守備時間も長引かせ、しばしば相手の反撃の気力を削ぐことになった。また、1番から5番(相手が左投手なら6番まで)まで左打者と右打者が交互に並んだ「ジグザグ打線」であったため、相手が左投手の場合でも右投手に比べ若干苦手にした部分はあったが、極端に攻撃能力が低下しなかった。
どこからでも点が取れる打線となった利点は、攻撃のみに留まらなかった。権藤博監督時代になると、接戦の終盤においてさえ走者3塁のピンチでも1点の失点に拘泥しない守備隊形を敷くことが非常に多くなった。プロ野球の世界では1点の攻防や重要性が強調されるが、常に大量得点の可能性を秘めるマシンガン打線が控えているからこそ、1点を気にせず大量失点だけは防ぐ守備陣を作りあげることができたのである。この戦い方は結果的に余分な失点を減らすことになり、打線の爆発力もあいまって、1998年のチームは優勝決定まで一度も4連敗以上を経験しないという安定感を誇った。
マシンガン打線が3〜4点を逆転するのは日常茶飯事で、後述する巨人戦での7点差を逆転した試合を筆頭に、奇跡的とも言える逆転劇を何度も巻き起こした。故に当時、同じく強打をチームカラーとした巨人、広島との試合では壮絶な打撃戦となる事が多かった。優勝を達成した1998年、終盤における異常なまでの勝負強さに当時横浜の監督であった権藤博が「まるで物の怪にとりつかれているかのようだ」と驚嘆し、当時ヒットしていたアニメ映画『もののけ姫』にかけて「もののけ打線だ」と発言するほどであった。終盤に横浜打線に逆転されると、球界屈指の中継ぎ陣、そして最後は「大魔神」こと佐々木主浩、という必勝リレーにつながれて再逆転の芽を摘まれてしまうため、相手ベンチに与えるプレッシャーは相当なものであった。
全盛期の監督である権藤は投手にアウトを贈ってしまう犠牲バントを忌避したため、強硬なヒッティング策がかえって併殺などの裏目に出たケースもしばしばあった。しかし逆に、バントでむやみにアウトカウントを増やすことが少なかったので、本塁打で走者が一掃されることが少ないことと相まって、相手投手はいきおい無死や一死で走者を複数背負う状況で投げることが多くなり、いわばじわじわと真綿で締め付けられるような恐ろしさの中での投球を強いられ、精神的疲労を蓄積させていった。試合終盤での大量得点がしばしば見られたのも、投手を追い詰めていった結果と考えることもできる。
つねに走者を塁上に置く攻撃スタイルであることから、権藤監督時代はリーグ最多残塁数を記録しているが、本塁打が少ない以上イニング終了時に走者が塁上に残るのは当然の帰結であり、この記録はマシンガン打線がその特長どおりに機能していたことの証明ともなっている
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