笑えない話、つらつらと。
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アオ
2008年02月22日 00:09 visibility110
「前提」
まず、現実の出来事には何事も原因があるということを考える必要があり、そして、その原因は多くの場合とても複雑であり、単純な原因に帰するのは他の可能性を見失う危険性があるということ。そして、相関関係と因果関係は別であるということ。さらに、知的な人間であっても、怒りや興奮で、そんな当たり前のことを忘れてしまうということ。スポーツや戦争は、時としてそういう状況を作り出し、だからこそ面白いし、だからこそ怖いということ。
・・・・・・なんてことを改めて考えてしまうほど、ちょっと現実とは思えないほど、ひどくエキサイティングで野蛮なものを見てしまった。
「気持ちの悪さ」
ボクシングや昔のプロレスのような、人が傷つくことへの恐れと、それを安全な場所から見ていたいという嗜虐心が入り混じった、今はあまり見られないある種の興行を見ている感覚を思わせた。そういう興行をビデオで見たりするのは決してきらいじゃないし、ドキドキしながらもどこか安心している。しかし、リアルタイムで、しかもサッカーという競技の中で、かつ選手の本気の怪我を喜ぶような観客に囲まれた状態の中で見るという慣れない経験。見ていて途中で気分が悪くなり、安田選手が退場した際には、「こんなのはサッカーじゃないし、もう見ていたくない。岡田監督に試合放棄してもらえないだろうか」とつぶやいてしまったほどだ。
「ラフプレーの原因」
1日たって振り返ってみるが、バルサTVヒストリーなどで15年前のヨーロッパのサッカーを見ると、昨日の中国なんてメじゃないほどひどい(今の基準から見て)悪質なタックルが頻発していたことに驚くけれども、不思議と荒れていなかった。選手たちが悪質なプレーをしたとしても紳士的な気持ちを失わなかったのは、基準がそれなりに一定しているレフェリーがいて、スポーツ選手への親愛の情がある観客たちがいたからかもしれない。冷静に考えてみても、昨日の重慶のスタジアムには、ピッチにもスタンドにも、選手以外に随分欠けているものが多いように見えた。以前に海外制作のテレビ番組(ポールガスコインの特集かなんかかな?)かなんかで、Cリーグのラフプレー集みたいな映像を見たことがあるが、飛び蹴り肘打ちはあたりまえ、レイトタックルはもうお互いわかってて交わしあうくらいになっていて、悪質なタックルをするためにわざわざ死角から飛び込むくらいになっていた。いつの頃の映像かは知らないが、殺伐としたスタジアムの雰囲気とともに、記憶に残っている。
「プロフェッショナリティ」
しかし、岡田監督や選手たちも言っていたように、そういうところでも行われるのがサッカーだし、とりわけ国際試合である。やはり彼らはプロであり、嫌ならやめればいいというものではない。信じられないほどひどいレフェリーがいても、選手たちは追い出すことはできない。できるのは、自分で自分の身を守ることだけだ。なぜなら、それがルールだから。
選手にとっては、ルールに比べたら、試合の筋書きなんてものは観客が勝手に考えるもので、良くも悪くも、偶然だろうと人為的だろうと、時として信じられないような光景が生まれるのは、プロのエンターテイメントとしては当然のことに過ぎない。そこに何かの思想を見出そうなんていうのはアマチュアの傲慢だ。だからこそ彼らの多くは冷静に、知的にプレーした。それなのに、一瞬でも「試合をやめて欲しい」なんて思った自分は、やはりアマチュアの観客の一人にすぎず、その世界の「プロ」向きではない。それだけのことなのだろう。
「再び、ラフプレー」
今やピッチのあらゆる角度からカメラが狙い、瞬時にスロー再生される時代だが、オフトの世代(そういえばあれも15年前くらいだ)あたりまでは、国際試合といえばレフェリーさえ見ていなければ汚いプレーをし放題だったと話す選手は多い。FIFAがフェアプレーキャンペーンをしつこく行い、高度な放送技術が機材の進歩により安価かつ迅速に使えるようになり、また汚いプレーに対して試合後にビデオ裁定が行われるようになり、汚いプレーがペナルティを受けるリスクは高まった。実際、15年前の映像を見て汚いなと思うことが、平均的に見て汚いプレーは減っていることを示しているように感じられる。 しかし、「汚いプレーをしないで負ける」ことと、「汚いプレーをして負けない」ことの瞬間的な二項対立は決してなくなることはない。プレミアリーグは言うに及ばず、Jリーグでも、たまに15年前レベルの悪質なプレーを見ることがある。しかし、それが1回で終わるときと、報復合戦になるときがある。一番の原因は試合展開だろうと思うけれども(互いにシュートをほとんど打たないような寒い試合がラフプレー合戦になることはほとんどない)、そこには観客の期待や、レフェリーのレベルが影響を与えているという相関があるように思える。
「過激な人もいる」
明治以降の日本人のメンタリティとして、外国に恥ずかしい姿を見せるのは大恥だというものがあるが、そういう心情はおそらく世界から見ると結構マイノリティではないかと思うことがある。例えばサッカーの国際試合で、自分の国の代表と戦う相手国の代表チームに対して過激なサポーターが妨害工作をしたりすることを、おそらく多くの日本人は失礼で恥ずかしいことだと感じる。それはなぜだろうか。国際社会の中でうまくやれる自信のある国の人間は、他国に向けた恥を感じるヒマがあったら、むしろ自分の主張とその正当性を前に出していく気がする。日本人はひょっとしたら、土地に縛り付けられた封建時代と鎖国が長く続きすぎて、そういう自信が決定的に欠けているのかもしれない。別にそれが悪いことだとは全然思わないし、善し悪しを言うつもりもない。しかし、ちょっとナイーブに自意識過剰なのかもしれない(あるいは一体感がありすぎるといってもいいのかも)。「おかしなやつがいても、自分とは関係ない」と思うのが、きっと非日本人的な考え方としては普通じゃないだろうか。とはいっても、国や地域、時代や社会的地位によっても全然違うのだろうから、まったくの憶測だけど。
「男あまり」
経済学の研究者の知人の日記で読んだのだが、ここしばらく中国では犯罪が増加傾向にあるらしいのだが、ジェンダーに関する課題を経済学で分析するのに定評があるLena Edlundという学者によればその理由の一つは、ずばり「男が余っているから」らしい。
「More Men, More Crime: Evidence from China’s One-Child Policy」
これによると、1人っ子政策により、男女比がおかしくなり(男性が余っているらしい)、犯罪が増えるのだそうだ。
*ちなみに、1人っ子政策による中国の男女比の不均衡については、以前から問題視されている。特に農村部がひどいらしい。軽くググッて出てきたこの辺の記事を参照のこと。
http://www.pekinshuho.com/sh/txt/2007-11/15/content_85708.htm
http://www.china.ne.jp/2005/03/13/jp20050313_48312.html
http://www.recordchina.co.jp/group/g14261.html
で、Edlundの論文に話を戻すと、統計から次の3つの傾向が浮かんだそうで、経済学的な実証によればどれもそれなりに事実といえるらしい。。
1 男は女に比べて犯罪者予備軍
2 独身男はさらに犯罪者予備軍
3 女が少ないと男は犯罪に走る
さて、自分なりにこの結果を使って考えてみる。重慶は3千万人以上が住む途方もない大都市(というか地域)だけれども、中国の中でも農村部の人口比率が最も大きい地域だ(2004年現在で約90%らしい)。とすると、男女の人数差がひどいことになって、男が余りまくっている可能性が高い。
サッカーの応援の過激化と関係あるかどうかの相関は知らないので憶測にすぎないけれども、「そんなところで愛国主義教育を重視していたら、まあ不思議はないなあ」という気がしてくる。
日本の農村も男があまっちゃってるけど、日本は生活水準はいいから、言葉もわからないまま初対面から1週間で中国や東南アジアからお嫁さんがやってくるケースが随分あるみたいだけれど、中国の農村部ははどうやって嫁を確保するんだろうか。女性だけを増やすというわけには行かない。仮に中国全土のの農村がナポリの一部やケープタウンみたいに犯罪シティになっちゃったら、平和を取り戻すのはかなり大変だと思うのだけれど・・・。
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