ライオンズ史研究室〜伝説となった平和台〜


 野球日本残念でした。シーズン中に突然違う環境下で試合をするのはきつかったと思います。。。 ゆっくり休んでペナントレースでらしいプレーを期待しています。お疲れ様でした。
 
 さて、今回は19日に行われた「ライオンズ史研究室〜伝説となった平和台〜」について紹介しようと思います。
 講師は綱島理友氏と田村大五氏。田村大五氏は「平和台の住人」とも言われたスポーツ記者だそうです。
 話は戦前の東京セネタース(旧西武鉄道が後援していた球団1936〜1940)が現杉並区にある上井草野球場を使用していたことから始まります。この東京セネタースは後に金鯱軍(ドラゴンズとは無関係)と合併し大洋軍(ホエールズとは無関係)を結成1943年に西日本鉄道に譲渡され西鉄軍となった。しかし同年解散する。 1950年西鉄はパリーグにクリッパーズを創設して、平和台球場を本拠地としました。

 


 当時の平和台球場は設備も悪く、「トイレのにおいはプンプンするし、食堂も、売り子もいない・・・」と田村氏の昔話が印象的でおもしろかったです。
 そんな平和台で有名にしたのが1952年に起きた平和台事件。毎日オリオンズとのダブルヘッダー第二試合。雨も降り試合時間が延び負けていた毎日の選手が日没ノーゲーム(ナイター設備がつくのは1954年)にするために遅延行為をしたことにより事件が起こる。 勝ち試合をノーゲームにされた怒りから西鉄ファンはグランドに乱入し選手に襲いかかったという。機動隊も出動する事態になった。 ファンの怒りは収まらず毎日の選手が泊まる旅館にまで押しかけた。 大舘勲が謝罪に出て西鉄ファンは大館は男らしいと賞賛したそうです。

 観客席とグランドを分けるネットはこの騒動のあとにつけられた、観客保護と言うより選手保護のネットなんですよね。という綱島氏の解説がおもしろかったです。


1958年改装され1978年までライオンズの本拠地として1989年から1992年ダイエーホークスの本拠地として使用された。
 球場の一部からは鴻臚館(古代アジアの玄関口とされる遺跡)が発掘され公園として整備される事になる。昔、大下弘はこの球場には「何かがある」と話していたそうです。 また、遺跡発掘作業のため中西太が打った推定飛距離160MのHRの杭を抜いた事に田村氏は怒っていました。

 まだライトスタンドの一部が残っていたり記念碑があるらしいです。 私は2004年に平和台球場跡地に行きました。あのストライキの日に・・・そのときはレフトスタンドも残っていたのですが。

 最後にこのように球団の歴史を話す機会をくれた、ライオンズ球団に感謝すると言う事で講演が終了しまた。
 私もこのような球団の歴史を知ることができ、充実した、ライオンズクラシックであったと思います。ファンと地域が密着した球団造りをこれからも目指してほしいと感じました。





















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