サッカー文化:ウクライナ
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2012年01月30日 10:17 visibility216
UEFA EURO 2012開催に伴うサッカーへの関心の高まり、
さらには設備の整った新スタジアムが数多く建設されたこともあり、
ウクライナのサッカーは家族全員が楽しめるレジャーとして復権を果たしている。
観戦文化
サッカーは今でもウクライナで一番人気を誇るスポーツだが、
旧ソ連時代にも全盛期を経験している。
当時、サッカーの試合は家族や職場総出で参加する娯楽であり、
スタジアムの周辺に設けられた“brekhalivky”(おしゃべりの場の意味)で、
ファンは試合について語り合った。FCディナモ・キエフのビッグゲームともなると、
観客数はしばしば10万人を超え、
ブラックマーケットでは1カ月分の賃金に相当する値段でチケットが取引された。
ソ連の崩壊に伴う経済の混乱でサッカー界も大きな打撃を受けたが、
キエフ、ドネツク、リビウ、ハリコフ、オデッサ、ドニエプロペトロフスク、
ザポリージャといった都市に建設された新スタジアムにより、
観戦文化も新たな盛り上がりを迎えている。
主要なダービー
FCディナモ・キエフ vs FCシャフタール・ドネツク
‐ ウクライナで最も大きな成功を収めている2クラブが激突する。
FCディナモ・キエフ vs FCチョルノモレツ・オデッサ ‐ 旧ソ連時代最大のダービーマッチ。
チョルノモレツはモスクワの複数のクラブと強いつながりがあり、
そのこともあって当時のディナモの宿敵だった。
FCメタリスト・ハリコフ vs FCドニエプル・ドニエプロペトロフスク ‐
ウクライナ東部が最も熱く盛り上がる一戦。
FCFCドニエプル・ドニエプロペトロフスク vs FCメタルルフ・ザポリージャ
‐ ウクライナ一の大河、ドニエプル川沿いの2大都市を代表するビッグクラブの対決。
FCカルパティー・リビウ vs SCボリニ・ルチク
‐ ウクライナ西部最高のビッグマッチは、かつてこの地にあった大公国の名を取って
ハールィチ・ボルィーニ・ダービーと呼ばれる。
ゲン担ぎ
ポーランド同様、選手は試合当日はひげを剃らないという習慣がある。
他のゲン担ぎとしては、試合前に電話で話さない、
ピッチに踏み入れる足をどちらか片方に決めておく、といったものがある。
ディナモ、さらにはウクライナで最も高名な指導者である故バレリー・ロバノフスキー監督は、
ピッチであれ、道路の歩道であれ、白線を踏まないことを習慣にしており、
審判団と選手たちがピッチに向かう際には常に同じ場所でその姿を見守った。
さらにチームバスの運転手に対しては、スタジアムに向かう際にバックすることを禁じた。
こうしたゲン担ぎは、同監督の教えを受けた多くの弟子たちによって広まっていった。
応援歌
ウクライナ代表チームが出場する試合では、以下のような代表的な応援歌に耳を傾けてみよう。
“Shche ne vmerla Ukrainy ni slava ni volya”(ウクライナの栄光と自由はいまだ滅びず)
‐ウクライナ国歌は今でも最も人気のある応援歌だ。
“Chervona Ruta”(赤いヘンルーダ)
‐ヘンルーダと呼ばれる植物を歌ったウクライナでは有名な歌。チームが絶好調のときに。
“Lenta za lentoyu”(マシンガンベルトが続々と)
‐チームを鼓舞するときに歌われる愛国的なウクライナの歌。
“Slava Ukrayini! Geroyam Slava!”(ウクライナに栄光を! 英雄に栄光を!)
‐スタジアムでファンのグループ同士の掛け合いが最も頻繁に行われる曲。
“Virymo v komandu”(チームを信じて)
‐劣勢にある自チームを勇気づけるときに。
名言
「100年後、1000年後、いつになるかはわからないが、
サッカーが完全に入れ替え可能な段階に達する日が来るだろう。
試合の時々でピッチで要求される任務すべてを自覚し、
完全にこなすことができる選手が登場するはずだ」
‐ジョゼップ・グアルディオラ監督率いるFCバルセロナの登場を予見するような、
故ロバノフスキー監督
「試合の内容など忘れ去られる。記憶に残るのは結果だけだ」
‐指揮を執るチームが内容よりも結果を優先していると批判された時の、
故ロバノフスキー監督のお決まりの回答
「サッカーに正義を期待してはいけない」
‐かつてチョルノモレツやシャフタール・ドネツクを率いたビクトル・プロコペンコ氏が、
内容で上回ったチームが常に勝つとは限らない理由を述べたもの
「美しい瞳の持ち主だからという理由で選手を招集することはない」
‐現在ウクライナ代表を率いるオレフ・ブロヒン監督が語った、自らの招集方針の原則
「得点を決められないと、失点を許すことになる」
‐最高のチャンスを逃したチームが直後にゴールを許した時、
監督や解説者が口にするお約束のフレーズ
豆知識
ディナモがソ連リーグで初優勝を決めたのは、1961年10月17日のこと。
この日のアバンガルド・ハリコフ(現在のメタリスト・ハリコフ)との一戦は
さえないスコアレスドローに終わり、ファンも会場を去りかけていたとき、
スタジアムのアナウンサーがディナモ以外で優勝争いに唯一生き残っていた
FCトルペド・モスクワの敗戦を告げたのだった。早速、祝勝会が始まり、
ファンは新聞や雑誌に火をつけた即席のたいまつで喜びを表現。
一つ間違えば火災の危険があったことはともかく、
極端な感情表現が歓迎されなかった旧ソ連社会では、
このお祝い騒ぎは不適切な行為とされた。
しかし今では、ウクライナにおける真のサッカー観戦文化の開花を告げる出来事と
位置づけられている。
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