山陰の雄 島根県立大社高校(まりや様どうか願いをかなえてください)

おはようございます。

ここ常陸の国水府地区は台風15号の影響でどんよりとした曇り空です。

 

今日はこれから我が家の避暑地那須白河地方に小旅行に行ってきます。

仕事が忙しすぎて少しリフレッシュしたくなったからです。しかしながら日頃の行いが良いのか台風直撃。

参った!。

 

そんな中昨日奥さんから「こんなの買ったの?」

私「何それ?」

奥さん「竹内まりやのCD」

私「あれお前好きだったっけ?」

奥さん「歌詞が良いから」

私「あーそう!」

私「そういえばなんで竹内まりやって山下達郎と結婚したんだろうね!。そんなイケ面でもねえし」

奥さん「顔で選んだんじゃないんじゃない!、外見でしか判断しないあんたとは違うよ、音楽の才能に惚れたんじゃない」

私「一言多いよ、けど確かにそうか?山下達郎はシュガーべィブというグループの時にも有名だったからね!」

私「竹内まりやが卒業した高校って知っている?」

奥さん「知らない!」

私「大社高校」

奥さん「会社高校?」

私「違う、違う、たいしゃ高校!島根の出雲大社の大社高校」

奥さん「へーそれがどうしたの」

私「お前、大社高校って言ったら米東(ベイトウ)と並んで山陰の高校野球の古豪だぞ!、しかも竹内まりやは旅館の娘らしいよ!」

奥さん「高校野球の歴史なんて興味ないし」

 

とばっさり会話を切られてしまいました。

 

夫婦漫才が長くなりました。

 

島根県立大社高校は島根県出雲市大社町北荒木1473に位置する島根県を代表する進学校でもある。

明治31年簸川尋常中学として創立。33年官立第三中学学校、40年県立杵築中学を経て、大正15年県立大社中学校と改称。昭和23年学制改革で県立大社第一高校となり、24年大社第二高校(旧大社高女)と統合して県立

大社高校となり、48年体育科が設置された。

世間では竹内まりや、江角マキコの母校として知られている。

 

野球部の歴史は明確になっていないが明治32年頃から行われており、33年には修学旅行で訪れた広島県の三次中学と試合を行った記録が残っている。

 

野球部は34年5月に正式に創部。

大正4年の夏の第一回大会予選には千家剛磨(国学院大学野球部部長→出雲大学教管長)→奈良井朋義(中島鉱業→松江中監督)のバッテリーにレフト山根斉(三高→京都大)らを擁し山陰代表決定戦迄進出した。

この試合は本大会が行われる豊中球場で行われたが、氷水を食べた上に、当日の朝「武運長久」として端午の節句に作った餅を食べたことが原因で選手全員が下痢になり力を出し切れなかった。

 

6年夏にエース児玉真市(山陰合同銀行→島根県議)と4番を打つ江角末夫のバッテリーに5番1塁尾原勝吉(明大→NHK交響楽団指揮者)らで全国大会に初出場。

初戦では長崎中学を6対3で下し、準々決勝では長野師範と対戦、9回2点差を追いつき延長10回サヨナラ勝ちしてベスト4まで進だが、準決勝では愛知一中に3対2と敗れている。

この大会で児玉投手は中学生ながら顎鬚をはやし「聯隊旗投手」と言われた。

 

10年夏にはエース春日熊右衛門(大社中学監督→米子鉄道管理局)で出場したが、初戦の釜山商業戦が乱打戦となり8対17で敗れた。

 

昭和6年春日熊右衛門が監督に就任、夏には飯山寿八→加藤一久(東大→島根県議)のバッテリーで甲子園に出場。初戦の京城商業戦は第乱打戦になり12対11で辛勝してベスト8に進むが準々決勝では小倉工業に22対4と大敗を喫した。

 

大社高校は戦前だけでも3回甲子園へ出場している。

 

戦後は21年6月に復活。26年エース澄田邦夫(松竹→協和発酵→多々良学園監督)で春の県大会準優勝。

夏にはベスト4.

 

30年夏には2年生エース手銭善之(近鉄)とセンター伊藤光四郎(阪神→西鉄)で県大会を制したが東中国大会で敗退した。

 

34年名将北井善衛監督が就任。同年夏県大会では準決勝で大田高校と対戦。0対0で延長戦となり14回裏、大社高校が無死二三塁と攻めバント処理を巡り大田高校の監督が猛抗議。40分の試合中断後試合再開したが間もなく日没でがームセットとなった。

 

このため試合後遅延行為として大社高校側が抗議をしたが受け入れられず、翌日に試合放棄が宣言されて準決勝敗退となった。(大田高校は西中国代表として甲子園へ出場)。

 

翌35年若月宏之(立教大→京都大丸)→千家敬磨(慶大→カネボウ)の2年生バッテリーに1番センター中筋勝美(法政大)、三塁も2年生の山崎登由(巨人)で29年ぶりに復活したが、静岡高校に1安打の0対2で敗れた。

 

36年夏には同じバッテリーに4番三塁山崎、ライト高畑忠善(大社高校監督)で出場。初戦で札幌商業を9対1で下したが二回戦では柴田のいる神奈川の法政二高に0対4を敗戦した。

 

38年小田川幸市監督が就任し、夏にエース松尾勲(積水化学)で出場したが三重相可高校に2対6で完敗。

 

50年5月高畑忠善監督が就任。51年春にはエース飯塚幸男で出場したが初戦で習志野高校に乱打戦の末7対8で惜敗した。

 

56年今岡実監督が就任。57年秋中国大会ベスト4に進み翌58年選抜にエース森井博一(専修大)で出場。

初戦の狭南高校に伊藤投手に4安打に抑えられていた打9回に2点を奪い2対0で勝利。二回戦の東北高校を6対5の1点差で下したが優勝した池田高校に0対8を大敗を喫したが戦後初めてベスト8へ進出した。

 

60年夏には2年生エース安藤享(龍谷大→飯南高校監督)、4番板垣悟史(慶大→大社高校監督)で出場したが初戦で北の雄旭川竜谷に延長10回2対3で惜敗している。

 

平成2年には新田均監督が就任。3年秋県大会で優勝し。4年夏にはエース大内秀則(神奈川大)で出場したが宇都宮南に3対5と敗れている。

 

その後は、板垣悟史監督が就任。平成6年夏県大会決勝まで進出。8年春にはエース松島朝章で中国大会ベスト4迄進出。

9年にはエース竹内登で春の大会で優勝したが、夏は準決勝で敗れた。

 

今年令和元年の第101回大会も県予選で3回戦で浜田高校に6対2敗れている。

 

毎回毎回優勝候補に挙げられながら遠い甲子園。

 

出雲の神様の神頼み、そしてまりや様のお願いが通じで欲しいと思います。

 

大社高校がいつの日か甲子園で活躍する日が来ることを祈ってやみません。

 

(竹内まりや エクスプレッションズ、エクスプレッションズってどんな意味なんだろう!)

 

(昭和51年春選抜特集号からの抜粋)

 

(竹内まりやもこの校門を通って通学してたんだろうな?)

 

(昔ながらの木造校舎、後ろは山、昔ながらの里山感満載)

 

(大社高校ナイン)

 

(その当時のエース飯塚)

 

 

                                   おわり

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