青い稲妻・松本匡史はかくも伝説なのか?(その4)

  • Miya
    2008年02月15日 15:41 visibility8201


今季からヤクルトの監督に就任した高田繁。

かつては巨人のレフトとして「壁際の魔術師」と呼ばれるほど華麗な守備を誇る名手であった。

75年オフ、日本ハムの張本勲がトレードで入団した際、張本がレフトを希望したため、

長嶋監督は高田をサードにコンバートした。

 

このオフ、キャンプまでの間のことを高田は今でもこのように回顧する。

 

「とにかくガムシャラに練習した」

 

その猛烈なトレーニングは今でも語り草になっている。

 

 

79年オフの松本匡史はどうだろう・・・。

 

内野から外野へのコンバートだけではない・・・。

 

右打ち打者からスイッチヒッターへの転向も・・・・、

 

ダブルパンチじゃん!!!

 

プロ野球広しとはいえ、こんな試練に出くわした選手は珍しい。

 

当時新婚だった松本は新妻をパートナーに連日連夜練習に励んだという。

 

「ガムシャラx2」!!!

 

退路を絶たれた男の挑戦は見事に成功する。

 

82年(61盗塁)、83年(76盗塁)と2年連続で盗塁王を獲得。

年間76盗塁は現在もリーグ記録である。

弱肩ではあるが俊足を生かした守備範囲が広いセンターとして鳴らし、

81年、82年、83年はゴールデンクラブ賞を受賞した。

 

といっても、81年以降の巨人に恩師・長島茂雄の姿はなかった。

80年、リーグ3位に終わったことで長島は監督を解任されたのだ。

松本としても歯痒い思いは人一倍あったはず・・・。

 

 

藤田元司監督の指揮のもと、チームは81年日本一、82年リーグ2位、83年リーグ優勝を果たす。

まさしく松本匡史の全盛期といえる3年間である。

 




ところが、そのわずか4年後、

松本は引退した。

 

84年から監督となった王貞治は松本をレフトで起用することが多かった。

87年オフ、ドーム球場完成に伴う外野守備の強化ということで、

簑田浩二(阪急)の交換要員として名前が挙がる。

 

トレードを打診された松本はあっさりとユニフォームを脱いだ。

最後の2年間の成績を見てもまだ老け込む内容ではない。

 

86年 119試合 461打数 39盗塁 打率.256
87年 106試合 365打数 13盗塁 打率.244

 

余力を残した33歳だった。

(つづく)




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