赤鬼と青鬼

姫路市の書写山の麓には昔は赤鬼と青鬼が住んでいると言われていた。

 

まさか?御伽噺でもあるまいしと子供心に思っていた。

 

しかしそれが居たので有る。

赤鬼は梅谷馨

青鬼は田中治である。

 

そこは、書写山の麓にある東洋大姫路高校である。

東洋大姫路高校は梅谷馨と田中治の元、1972年〜1974年迄3年連続で夏の甲子園へ出場している。

 

兵庫県では「春の報徳、夏の姫路」、「東の報徳、西の姫路」と言われた。

 

梅谷自体は島根県の益田産高出身で2年の時に夏の甲子園に出場している。その後は当時姫路市にあった社会人野球チームの山陽特殊製鋼で3年間プレーして21歳で東洋大姫路の監督に就任した。

 

東洋大姫路は学校創立されて半年後の1963年(昭和38年)9月の事で有った。

 

零からのスタートをも、のともせず「甲子園で優勝」を目指し、日夜猛練習、猛練習を繰り返し、やめてゆく選手が続出したが、「やめるやつは、やめてしまえ!」と言う。

 

それでも1969年夏に甲子園初出場。しかし日大一高相手に初戦敗退。「出るやけやない、優勝するんだ」と更に猛練習に歯車が、選手父兄からも抗議が有ったが「とにかくクビを掛けてやる、俺についてきてくれ!」と浪花節でまとまり1972年2度目の甲子園で習志野を破り甲子園初勝利を挙げている(監督は田中治氏)。

 

習志野を破り初勝利を挙げた時梅谷は姫路商業から招聘した田中治を監督に据えていた。梅谷自身は副部長だった。

この時に習志野に居たのは掛布雅之、阿部東司であった。

梅谷は副部長という立場からチームを見守った。

しかし1975年体調が優れなかった田中治に代わり梅谷が監督にカムバックし田中治が副部長に就任した。

 

そして1975年にある左投手が入部して来た。

松本正志であった。コントロールは悪いが、スピードボールを投げれる。コイツがいる間になんとか甲子園で優勝したいと考えるようになる。

 

松本が2年時1976年の選抜大会でエース小南と併用で使い経験値を積ませた。

 

そして1977年の第59回夏の甲子園で松本投手の快投と強力打線でついに深紅の大旗を手にするので有る。

 

梅谷監督の口癖は「身体で覚えろ!」だったようだ。

 

1979年春、1982年夏とベスト4進出。

1986年夏に長谷川滋利で8強を手土産に45歳で後進に道を譲った。

 

この夏も甲子園に出場する東洋大姫路高校。

先人達の思いまで背負い、2度目の深紅の大旗の獲得はなるのであろうか?。

 

☆名将烈伝(ベースボールマガジン社)より写真引用。

☆兵庫の高校野球(ベースボールマガジン社)より引用。

 

 

 

 

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