草野球 「会費の真実」 番外編
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源内
2014年05月23日 00:56 visibility215
ポンヌッフで晩飯を取り今帰路。辞める仕事とは言え、あ~までクライアントに言われちゃ、漢が廃る、というか、廃りまくりなんでこれ以上廃ったら、スタ丼山盛りを、スタミナ苑でぶちまけたくなるような、そんな気分。
ああ、歯切れ悪い。
さて、私の場合、何人か、何チームかの草野球チームさんにお世話になっていた訳ですが、あぶ監督だけは尊敬しています。
前々から、A′sをあぶ監督のチームに移行させた事はここでも書いているので、省きますが、そこで私があぶ監督から学んだ事を少々。
あぶ監督は、持病が悪化し足首から下を切断した、という所からしか私は知りません。で、前回の分類で行くと、1番に当たる人でした。
私はこのチームの助っ人で最初参加をし、あぶ監督に私の当時の事情を伝えたら、二つ返事で、いいよ、やろう、と、言ってくれた唯一の監督さんでした。
そこから、チームを移行させる事がスムーズに行ったのと、当時のA′sが参戦していたGBN3部の試合をこなすことが出来たのは、あぶ監督のお陰でした。
助っ人に行った翌週、私はかつて自分もお世話になった江戸川区のチームとGBNの試合でしたが、わざわざ観に来てくださって、いいチームだね、いい試合するわ、(投手戦の末サヨナラ勝ち)でもなんでこんなチームを?と、お世辞でも言って下さった事は素直に嬉しかった。
そこから移行の話し合いをし、実際に最後まで残った私含め5人が監督のお世話になる事となりました。
そこで私が学んだ事は主に3つです。
1.草野球の管理は中くらいが丁度良い
2.赤字?気にするな
3.斬る勇気より、育てる我慢
1.
兎に角、あぶ監督は我慢の人だったと思います。管理の仕方は目を見張りました。私はなるったけ、不満の芽は摘むつもりでコミュニケーションを取っていたつもりになってました。しかし実際は火を点けていただけでした。
あぶ監督の場合、スルーする事が多々、忘れてた事も多々、と思いきや大体は忘れた振りをしていました。帰りの車でよう聞かされました。
その場では答えは必ず出していました。これは聴いたら意図的に壁を作り、そこを乗り越えさせよう、としていたらしいです。人材育成のお手本みたいなやり口です。
人を全く信用しない私には、全く出来ない芸です。私が不満の芽を摘む理由は、人を基本的には信用しないから。
そのやり方の巧さをまず、学びました。そして私のやっていた徹底管理、という方針そのものが間違いだった、と、気付きました。
こういうやり方は、草野球には合っている、完全を求めるより、不完全である方が、メンバーさんが考え自ずと行動する
ので、そのやり口の方が、ガラス張りみたいにするより遥かに長続きします。
その証として、あぶ監督のチームは、四半世紀続いています。私が参加した中では二番目に長い歴史があります。
その四半世紀の殆どは、我慢の連続だったと考えられます。
2.
これも我慢の人、あぶ監督らしい事と私は思いました。
ホームグラウンドに、近所の葛飾スポセンを選び、管理会社の人と信頼関係を作り私たちメンバーは皆そこにおんぶだっこ。そして赤字に。けど、いや、転職されたばかりで経済的には相当困窮していたはずなのに、気にしないのです。
そして、止せばいいのに、ファミレスでボリューム満点の油で揚げたメニューばかり頼んでました。あれで持病を悪化させていたんだと私は思います。試合後にプレイヤーの私たちより食べてました。
監督やっていた分の我慢を、食い物で解消していたのかは分かりませんが、兎に角良く喰い、良く寝る人だと思いました。試合中にスコア付けながら寝ている事も多々。帰りの車では必ず寝てました。無呼吸状態で寝る事も多々あり、心配してました。息の通りやすいように、と、ブリーズライトでも買ってあげれば良かった。
明け方未明に旅立ったので、私の心配は図らずも当たってしまい、無念に思いました。
3.
あぶ監督は亡くなる直前迄、ストロングであと一つ勝てばプロスタだ、と喜んでいたそうです。葬式の時、身内の方からそう聴きました。涙が出そうでした。
その時の私は、勤めていた会社が大変な事になっていて、近々会社の為にまとまった大金が必要、お前なんとかしろ、出来なきゃレイオフ。お前の家族?知らん、路頭に迷え、と、長年苦楽を共にして会社を盛り上げた社長に言われました。その渦中の最中で、訃報を聴かなければ、私は決勝戦に行くつもりは皆無でした。というか、草野球を辞めるつもりでいました。
前からあって、今に続く人間不信の根を深い部分に張らせながら、偽物をでっち上げ、金の算段をせんとしていました。
訃報を聞いた時は、う~ん、う~ん、と思いましたが、それでも通夜に出向き、監督の亡骸の前でお身内の方からその話を聴いた時、なんでだよ、俺が代わりに死ねば、と、心の底から思いました。そうして、プロスタに連れてくからね、と確かに私は言いました。
そして、涙を流しそうになりました。
否、どっかで流しました。
ああ、そうだ、家についてお茶の缶だか、海苔の缶眺めながら泣いていたんだ、涙が止まらなかった。
死ぬ直前迄チームのことを‥‥一体どんな気分だったんだろう。
まさか私がエラーした事がキッカケで、うちのゴロー君がペースを乱して痛打されて負ける事なんて、想像もしなかったに違いないです。快勝してプロスタで采配を奮う自分を想像したのでは。
あの弱いチームを強くしたのはあぶ監督のリーダーシップの賜物です。
そう、言い切れば簡単なんだけど、現実はそう簡単なモンじゃあ、‥‥ない。
今でこそ、弱っていてもストロングで地区の一部の真ん中ですが、私が助っ人に来た当時は、ストロングの二部のチームにすら勝てるか、怪しかったのです。
いや、それ以下のチーム相手ですら、負けていました。余りにアクが強く、当時の野球スタイルは大味。兎に角大振りしかしない。よく四半世紀も束ねてたな、と今振り返ってみると思うし、私もよくあのチームに大人しいA′sのメンバーさんを、任せようと思ったな、と思っています。
まあ、私のA′sもノーサインでSPLで勝ち上がってしまう位の超大味野球スタイル、ザックリしすぎでキャッチャーの翁君や若手は頻りに心配していました。源内さんの脳みそは大丈夫か?と。
でも、何故か勝てるようになって、しかし一部のチームには大敗して、大敗して、大敗して。
そんな状態から、二部の地区大会で優勝し、一部のチームにもフルボッコで勝てるようになっていて、私が投げた、私の元居た赤く燃える集団には、リリーフで投げた私が完全に飛翔し、フルボッコ負けをしたりして満を持して挑んだ二部の決勝戦だった。
そういや、赤く燃える集団の監督さんと言えば、初顔合わせをした二年前、越谷市民球場のホームベース裏の観客席で、試合前のアップ時間に、それはそれは楽しそうに話をしていたっけな。お互いがお互いを相当な野球バカ、と褒め讃えていました。
二部に落ちた時も、赤く燃える集団の監督さんは、あぶ監督に、なんでアンタのいいチームが二部なんだ、早く上がってきなさい、と、あぶ監督を刺激してくれていたようでした。
そうしてストロングの二部で地区優勝、自動的に一部に戻り、一部でも善戦出来る程に、わずか半年足らずで強くしました。
まごうことなく、監督の実績です。私やA′sメンバーの加入より、若手の加入が戦力的には大きかったのは事実ですが、その若手を手懐け育てたのもあぶ監督の手腕かと。
それは、チームを育てる覚悟と我慢と戦略が、あってこそ、と考えられます。
私には、そこ迄我慢する度量はありませんし、多分やりません。チームを育てる我慢、は、あぶ監督から一番学んだ事でした。私は、筋違いを言うメンバーさんは、斬る事しか考えて居ませんでしたし、未だにそれが誤りだったとは、思って居ませんが、あぶ監督は全く違うアプローチをして、チームを正に育てました。
それを間近で見ていた私は、得る物は沢山ありましたが、まだ活かせていません。
まずは、人間不信を治す所からのスタートだと、考えておりますです。
- 事務局に通報しました。
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