涙を流させる友へ

何もできなかった、人を友を家族を仲間を・・・

自分自身に力がなく・・・

涙をながすように なる前に・・・みなさんに

幸せを導けるような人の説法の紹介にLaBOLA日記を使いました。

コメントをいただいても 自分の言葉ではないので 返事をしないかもしれません・・・ご理解ください。



福岡県 南蔵院(なんぞういん)
林覚乗(はやしかくじょう)和尚の心に響く言葉より…

●『自分が好きですか』林覚乗・西日本新聞社より抜粋転載

ある若い看護婦さんが、幼い子供を持つお母さんが
乳ガンで亡くなった場面に立会い、涙が止まらなくなり、
その後仕事が全く手につかなくなってしまったんです。

『私は看護婦として、失格でしょうか』
と彼女は、私に聞きました。

私は『そのときに涙を流さない人は、
看護婦になってはいけません。
その時に涙を流す心を持った人に、
病人は看護してもらいたいのです』
と答えました。

ある東京の病院に、老婦人が入院していました。
既に、末期ガンでした。
死の一週間ほど前から、
老婦人はしきりに天気予報を気にし始めました。
その理由を、総婦長が尋ねますと
「運動会があるからです」という返事でした。

老婦人には、小学校に入ったばかりの孫がいます。
つい先日、お母さんに連れられて見舞いに来て、
学校のことをひとしきりしゃべっていきました。
運動会の練習がはじまったこと、
かけっこが得意なこと、勉強はともかく、
かけっこなら一番になれるかもしれないと自慢していました。
そして「おばあちゃん、雨は降らないよね」と、
念を押して帰ったのです。

その話を聞くと、総婦長は八十人の看護婦さん全員に呼びかけました。
「おばあちゃんの願いが通じるよう、みんなでてるてる坊主をつくってあげよう。
病室を一杯にして、おばあちゃんの気持ちを叶えてもらおう」
看護婦さんたちは、さっそくひとり一個ずつてるてる坊主をつくって持ち寄り、
ベットの上から窓の外まで一杯につるしました。

老婦人はうれしそうに、てるてる坊主たちを眺めていましたが、
病状は日増しに悪化、かわいい孫の運動会の日を待ちきれずに、
この世を去りました。

臨終の際、老婦人は看護婦さんたちの真心こもったプレゼントに
「あ・り・が・と・う」というかのように、目でうなずきながら別れを告げたそうです。


●『心ゆたかに生きる』林覚乗・西日本新聞社より抜粋転載

ジャーナリストで、作家でもある大谷昭宏さんが、
読売新聞の記者をされていた頃「窓」という欄を担当しておられた。
その欄にこんな内容の記事が載りました。

広島の女子高生のA子ちゃんは生まれた後の小児麻痺が原因で足が悪くて、
平らなところでもドタンバタンと大きな音をたてて歩きます。

この高校では毎年7月になると、プールの解禁日にあわせて、
クラス対抗リレー大会が開かれます。

一クラスから男女二人ずつ四人の選手を出して、
一人が二十五メートル泳いで競争します。

この高校は生徒の自主性を非常に尊重し、
生徒たちだけで自由にやるという水泳大会で、
その年も、各クラスで選手を決めることになりました。

A子ちゃんのクラスでは男二人、女一人は決まったのですが、
残る女一人が決まらなかった。

そこで、早く帰りたくてしょうがないそのクラスのいじめっ子が、
「A子はこの三年間体育祭にも出ていないし、水泳大会にも出ていない。
何もクラスのことをしていないじゃないか。三年の最後なんだから、
A子に泳いでもらったらいいじゃないか」
と意地の悪いことをいいました。

A子ちゃんは誰かが味方してくれるだろうと思いましたが、
女の子が言えば自分が泳がなければならないし、
男の子が言えばいじめっ子のグループからいじめられることになり、
誰も味方してくれませんでした。
結局そのまま泳げないA子ちゃんが選手に決まりました。

家に帰りA子ちゃんは、お母さんに泣いて相談しました。
ところが、いつもはやさしいお母さんですが、この日ばかりは違いました。

「お前は、来年大学に行かずに就職するって言ってるけど、
課長さんとか係長さんからお前ができない仕事を言われたら、
今度はお母さんが『うちの子にこんな仕事をさせないでください』
と言いに行くの?
たまには、そこまで言われたら
『いいわ、私、泳いでやる。言っとくけど、うちのクラスは今年は全校でビリよ』と、
三年間で一回くらい言い返してきたらどうなの」
とものすごく怒ります。

A子ちゃんは泣きながら、二十五メートルを歩く決心をし、
そのことをお母さんに告げようとしてびっくりしました。

仏間でお母さんが髪を振り乱し、
「A子を強い子にしてください」と必死に仏壇に向って祈っておられた。

水泳大会の日、水中を歩くA子ちゃんを見て、まわりから、
わあわあと奇声や笑い声が聞こえてきます。
彼女がやっとプールの中ほどまで進んだその時でした。

一人の男の人が背広を着たままプールに飛び込み
A子ちゃんの横を一緒に歩き始めた。
それは、この高校の校長先生だったのです。

「何分かかってもいい。先生が一緒に歩いてあげるから、
ゴールまで歩きなさい。はずかしいことじゃない。
自分の足で歩きなさい」
と励まされた。

一瞬にして、奇声や笑い声は消え、
みんなが声を出して彼女を応援しはじめた。
長い時間をかけて彼女が二十五メートルを歩き終わったとき、
友達も先生もそして、あのいじめっ子グループもみんな泣いていました。


●『心ゆたかに生きる』林覚乗・西日本新聞社より抜粋転載

北海道新聞の切り抜きに、ある中年男性の投書がありました。

終電車の発車間際に切符なしで飛び乗り、
車掌さんが回ってきた時に、切符を買おうと
財布を出そうとしたが、財布がなかった。
小銭入れもない。
どこかで落としたのだろうか。

途方にくれたけれども、そのことを正直に車掌さんに言いました。
「すみません。明日、必ず営業所まで行きますから、
今日は乗せてください」

ところが、この車掌さん、よほど虫の居所が悪かったのかどうか、
許してくれない。
次の駅で降りろ、と言うのです。

次の駅で降りても家に帰る手段はない。
ホームで寝るにしては、北海道の夜は寒すぎる。
どうしようもなくて困っていたら、
横に座っていた同じ年格好の中年の男性が回数券をくれたんです。

お礼をしたいからと言って、その男性に名前や住所をたずねたけど、
ニコニコ手を振って教えてくれない。
最後は借りたことを忘れて、なぜ教えてくれないのかと文句を言ったら、
次のような話をしてくれたんです。

「実は私もあなたと同じ目にあって、
そばにいた女子高校生にお金を出してもらったんです。
その子の名前を何とか聞きだそうとしたけど教えてくれない。

『おじさん、それは私のお小遣いだから返してくれなくて結構です。
それより、今おじさんがお礼だといって私に返したら、
私とおじさんだけの親切のやり取りになってしまいます。

もし、私に返す気持があったら、
同じように困った人を見かけたらその人を助けてあげてください。
そしたら、私の一つの親切がずっと輪になって北海道中に広がります。
そうするのが、私は一番うれしいんです。

そうするようにって私、父や母にいつも言われてるんです』
と私に話してくれました。」


●『自分が好きですか』林覚乗・西日本新聞社より抜粋転載

ある病院に、頑固一徹で、
ちょっと世をすねたおばあちゃんの患者がいました。
家族から疎(うと)まれていたせいでしょうか。
看護婦さんが、優しくしようとしても、
なかなか素直に聞いてくれません。

「どうせ、すぐにあの世にいってしまうのだから」と、
かわいげのないことばかり口にします。

困り果てた看護婦さんが、機嫌のよいときを見計らって、
毎朝、病院の窓から見える、通勤の工員さんたちに、
手を振ってごらんなさいと言いました。

どういう風の吹き回しか、おばあちゃんは、
朝、ベットの上に身を起こし、
言われる通りにしてみました。

中には知らぬ顔をして通り過ぎる工員さんもいましたが、
何人かは手を振って返してきました。

その反応がうれしかったのか、おばあちゃんは、毎朝、
病院の近くに出勤する工員さんたちに
あいさつするのが日課になりました。

工員さんたちの中にも、病院の前に差しかかるとき、
決まって窓を見上げるひとが多くなりました。
「ばあちゃん、おはよう」、
言葉はお互いに聞き取れなくても、
心は十分に通い合いました。

まるで嘘のように、
おばあちゃんの表情には笑顔が戻ってくるようになりました。
看護婦さんたちとも打ち解け、態度からケンがなくなりました。

しかし、病気はだんだん重くなります。
それでも、おばあちゃんは朝を迎えると、手を振ろうとします。
まるで生きてる証でもあるかのように、日課を続けようとしました。

おばあちゃんは、亡くなりました。
今度は、工員さんたちが淋しい思いをする立場になりました。

訃報(ふほう)を聞き、
その鉄工所に勤める工員さんたちは、病院の近くに集まり、
おばあちゃんが毎朝手を振ってくれて窓辺に向かい、
深々と黙祷(もくとう)を捧げたそうです。


 


 


●『心ゆたかに生きる』林覚乗・西日本新聞社より抜粋転載

新聞記事に載っていた話です。

主婦A子さん(二十九)の夫は、
機械リース会社に勤務するごく普通のサラリーマンだったのですが、
あるとき商品相場に手を出し
会社や金融業者から借りたお金が約2000万円。

これに、家のローンや勝負ごとの負けも加わってついにマイカーごと蒸発。
その日以来、A子さんは毎日夕方になると
三歳の長女を連れて自宅近くの陸橋へ出かけるのが日課になりました。

毎日、毎日、きょうこそ夫が帰ってくるのではないかという期待を胸に
陸橋の上にたたずむ日が続きました。

しかし、一ヶ月が過ぎても夫は帰らず、連絡すらもありません。

借金の督促は厳しく、
帰るあてのない夫を待つことに疲れ果てたA子さんは、
何度も死ぬことを考えたといいます。

そんな四月の雨の日、一台の車が陸橋の下で止まり、
A子さんと同じ年恰好の女性が降りてきて、二人に声をかけました。

「間違ったらごめんなさい。
いつもそこにいるけど、身投げなんかしないでね」

この女性は日頃、陸橋の下を通り二人を見ていたんですね。
A子さんは、思わず心の中を見すかされたような気持ちになりました。
A子さんが返す言葉もないままでいると、
その女性は小銭入れを渡したそうです。

中には小さく折った一万円札が二枚とメモ用紙が入っていました。

(いつも気になって、あなたのことを見ていました。
人生って死んで何もかも終わりだと思うけど、
お子さんだけは道連れにしないでね)
と記されています。

さらにもう一つ、小さなカエルのマスコットが入っていました。
A子さんには、このカエルが「帰る」という言葉に結びつき
何かの暗示のように思われ、その場で娘を抱きしめながら
あふれる涙を抑えることができなかったそうです。

「勇気がわいてきて、立ち直れそうな気持ちになりました」。
その後、北陸の旧家のA子さんの実家では夫と縁を切るという条件で
お金の始末をつけてくれることになり、
A子さんも里帰りして出直すことになりました。

立ち直ったA子さんはその姿を見てもらおうと
何度か陸橋に出かけたのですが、
なぜかあの女性の車は通らなかったそうです。

A子さんが命の恩人を探している、
ということで新聞の記事は締めくくられています。


●『おかげさま』林覚乗講演CDより

これは、新聞に掲載された話です。

ワールドカップが日本で開催された時、
和歌山県にデンマークのチームが合宿した。
他の国では、戦術がばれるからと練習は非公開だったが、
キャンプ地を提供してくれた和歌山の人たちが喜ぶならと、
デンマークのオルセン監督は練習を公開した。

そして、地元の人が喜ぶことの方が試合に勝つことより大事と、
練習では少年とのサッカーの交流をしたり、
終わってから握手会などをしていた。

デンマークチームには、
トマソンという日本の小野選手とチームメートだった有名な選手がいる。
そんなある日の握手会の時、いつものように長い列ができていた。

ある少年がトマソン選手の前に立ったが、何も言わずにモジモジしていた。
トマソン選手の方が気になって、「どうしたの?」と聞いた。
すると少年が一枚の紙切れを出して、トマソン選手に渡した。
それは、学校の先生に書いてもらった英語の手紙だった。
その手紙には、こう書いてあった。

「ボクは小さいころに、病気にかかって
耳と口が不自由です。耳は聞こえません。話すこともできません。
でも、サッカーは大好きです。
デンマークのトマソン選手が好きです。
頑張ってください」

それを見たトマソン選手はニッコリと笑って、少年に言った。
君は手話ができますか?と、手話で語りかけた。
しかし、少年はわからなかった。
手話は世界共通ではないからだ。

そこで、トマソン選手は通訳に
「彼と筆談で話をしたいので手伝ってください」といい、
「後ろに並んでいる人たちにも、彼と話をする時間を少しください、
と断ってもらえませんか」と頼んだ。

そして少年との筆談が始まった。

「君はサッカーが好きですか?」

「はい。大好きです」

「そうですか。デンマークを応援してくださいね」

そこで不思議に思った少年が聞いた。

「あの、聞いていいですか?」

「トマソン選手はどうして手話ができるんですか?」

トマソン選手はこう言った。

「ボクにも君と同じ試練を持つ姉がいます。
彼女のためにボクは手話を覚えたんです」

「試練は君にとって辛いことだと思いますが、
同じように君の家族も、その試練を共有しています。
君は一人ぼっちじゃないという事を理解していますか?」

と優しく言った。

すると、少年は黙ってうなずいた。

「わかっているなら、オーケー。
誰にも辛いことはあります。君にもボクにも。
そして君のお母さんにも。
どうか、それを乗り越える勇気を持ってください」、と。

それをそばで聞いていた彼のお母さんは泣き崩れた。

そして、トマソン選手は少年にこう言った。

「ボクは今大会で1点を君のために必ずとります。
その姿を見た君がこれからの人生を頑張れるように
ボクは祈っています」

この言葉に、
「はい!応援します。どうか頑張ってください」
と少年は言って会場をあとにした。


トマソン選手は、少年との約束を守り、1点どころか、なんと4点をあげた。

結局は、ベッカムのいるイギリスに負けてしまったが、
帰る前の日に、和歌山の人たちはデンマークの選手が大好きになっていたから、
さよならパーティーを開催した。

その会場で、あの少年をトマソン選手はすぐに見つけ、自分のところに少年を呼んだ。


世界の有名な一流選手が、一人の無名な少年を、一人の人間として大切に扱い、
「せっかく応援してくれたのに負けてゴメンナサイ」と謝った。

少年は、
「負けたけど、とてもカッコよかったです。
約束どおり点を獲ってくれて、ボクはとても嬉しかったです」と筆談で渡した。

あくる日、国に帰らなければならないトマソン選手は、少年にこういった。

「ボクから君に言える言葉はこれが最後です。よく聞いてください」

「君には前にも言ったとおり、試練が与えられている。
それは神様が決めたことだから、今からは変えられない。
神様は君に試練を与えたけど、
君にも必ずゴールを決めるチャンスを神様はくれるはずです。
そのチャンスを逃さず、ちゃんとゴールを決めてくださいね」
とトマソン選手は最高の笑顔で話し、仲良く写真に納まった。


●『自分が好きですか』西日本新聞社

大阪の窓友新聞に、次のような内容の記事がありました。

大阪の藤井寺に住んでいる原田さんというお母さんの話です。

息子さんは、高校三年生。阪南大高校の野球部に入り、
レギュラーを目指して頑張ってきました。
大阪府予選を目の前にした土曜日、
いつもは遅くとも九時までには必ず練習を終えて、
汗びっしょりになって帰ってくるのに、十時半を過ぎても戻ってきません。

友だちの家に電話をしてみましたが、
レギュラーのその子は八時半すぎに帰ってきたといいます。
思いあまって、今度は警察に連絡してみましたが、
「今のところ、事故の連絡は入っていません」と。

そうこうするうちに連絡が入りました。

主人が笑い顔でこう言うのです。
「三年生でレギュラーになれんかった部員だけの引退試合があったんやて。
相手は、やっぱりレギュラーになれんかった、よその学校の部員や」

それは、レギュラーにはなれなかったけど、三年間苦しい練習に耐え、
補欠にもなれないその子たちの、いわばせめてもの晴れ舞台だったのです。

その引退試合は、負けたものの(補欠の補欠の)12人は
焼肉を食べにいこうということになったのでした。
一人前千円の食べ放題の店。
あっという間に時間が経ち、
気がついてあわてて家に電話をしたということだったのです。
こんな心にくい演出をしてくれた監督さんも、素晴らしい。

この間、川上哲治さんとゴルフをする機会があって、こう言いました。
「甲子園で買った方の学校の校歌を歌う必要はないのでは。
負けた方の学校の校歌を歌っていけば、
決勝戦までに全ての学校の校歌をきくことができるのではないですかね」

負けた方をホームベースに立たせて、勝ったほうはまた試合ができるのだから、
ベンチの前で拍手をして送ってやるのが、本当の強さであり、優しさではないかと思うのです。


●『であい』南蔵院講演CD

何年か前の、5月の連休中のこと、あるご夫婦が、ライトバンのレンタカーを借りて、
佐賀から大分県の佐伯(さえき)市を目指して出かけた。
佐伯市からは夜11時に四国行きのフェリーが出ていたからだ。

有料道路も整備されていなかった時代なので、充分な時間の余裕をもって出かけたつもりだったが、
迷いに迷ってしまい、大分の湯布院に着いたときは、夜の9時だった。

ご主人はこれでは間に合わないとあせって、大分南警察署に飛び込み、佐伯までの近道を聞いた。

警察官は、
「我々、大分の慣れた人間でも、佐伯までは距離があり、
山道で複雑なので、道に迷ったり、事故にあうかもしれない。
今晩はあきらめて、ゆっくりここへ泊まり、明日出かけたらどうですか?」
とアドバイスした。

しかし、ご主人は、
「それは、できません。
実は、私たちの19歳になる娘が、
高知県でウインドサーフィンをやっている最中に溺(おぼ)れて亡くなった、
という知らせを今日受けたのです。
生きた娘に会いにいくのなら、明日でもいいのですが、
死んでしまった娘ですから急いで駆けつけてやりたいのです」
と正直に事情を話した。

それを聞いた、警察官はそういうことなら、「全力をあげて、何とか努力だけはしましょう」と言った。
そして、すぐにフェリーの会社に電話をし、事情を説明して、出港を待って欲しいと頼んだが、
「公共の乗り物でもあるし、キャンセル待ちが何台もあり、難しい。
とにかく10時半までには来て下さい」、と断られたという。

そのやり取りをしている間、もう一人の警察官が署長に了解を取り、
車庫のシャッターをあけ、しまってあったパトカーを出してきた。

そして、赤色灯をつけ、レンタカーの前にぴったりつけ、
「今から、この車をパトカーで先導します。
このレンタカーの運転もベテランの警察官が運転しますので、
ご夫婦は後ろの席にかわってください」と言った。

そして、ものすごいスピードで大分市内まで降りてきて、
「我々はここから先は送れませんが、とにかくこの10号線をまっすぐに南に下ってください。
そうしたら佐伯に必ず出られます。どうか、頑張って運転してください」
と言って、敬礼をして戻って行った。

佐伯に着くと、警察官の再三再四の要請に、船会社も動いてくれ、
一台分のキャンセル待ちのスペースを空けて待っていてくれた。
そして、フェリーになんとか乗ることができ、娘さんの遺体を収容して帰ってくることができたという。

娘さんを亡くされたご夫婦は、その後何日間かは、あまりの悲しみで呆然(ぼうぜん)とし、何もできなかった。
しばらくして、気持も落ち着き、「あの時、もし船に間に合わなかったら、どんな気持で一日待っただろうか」、
と思うと、いてもたってもいられなくなり、大分南警察署にお礼の手紙を出した。

そして、その手紙で、皆の知るところとなった、そのときの若い警察官は表彰され、こう言ったという。
「我々だけじゃないと思いますが、人と人との出会いは損か得かじゃありません。
損か得かだったら、こういうことは一歩も進みませんから」


●『であい』南蔵院講演CD

戦後間もない頃、日本人の女子留学生が一人、アメリカのニューヨークに留学した。
戦争直後の、日本が負けたばかりの頃なので、人種差別やいじめにもあった。

そして、とうとう栄養失調になってしまい、体にも異変を感じ、病院に行ったところ、
重傷の肺結核だと言われた。
戦後まもないころ、肺結核は死の病と言われた。

思い余って医者に、どうしたらいいか聞いたところ、
「モンロビアに行きなさい。そこには素晴らしい設備を持ったサナトリウム(療養所)があるから」
と言われた。

飛行機がまだ発達していない時代、ロサンゼルス近郊のモンロビアは、
ニューヨークから特急列車で5日間もかかる距離だった。

当時、汽車賃さえない彼女は、死ぬよりはましだと、恥ずかしい思いをして、
知人や留学生仲間に頼み込み、カンパしてもらって、列車のお金を集めた。
しかし、食料までは手が回らず、3日分を集めるのがやっとだった。

治療費は、日本にいる両親が、家や田畑を売り払ってもなんとかするから、
という言葉を証明書代わりに、列車に乗った。
列車では、発熱と嘔吐が続き、満足に食事もできなかったが、
それでも、とうとう3日目には、食料がつきてしまった。

そして、なけなしの最後に残ったお金を出し、車掌にジュースを頼んだ。
ジュースを持ってきた車掌は、彼女の顔をのぞきこみ、「あなたは重病ですね」と言った。

彼女は、「結核となってしまい、モンロビアまで行く途中ですが、
そこまで行けば、もしかしたら助かるかもしれない」、ということを正直に話をした。
車掌は、「ジュースを飲んで元気になりなさい。きっと助かる」とやさしい言葉をかけてくれた。

翌日の朝、車掌が、「これは私からのプレゼントだ。飲んで食べて、早く元気になりなさい」と言って、
ジュースとサンドイッチを持ってきてくれた。

4日目の夕方、突然車内に放送が流れた。

「乗客の皆さま、この列車には日本人の女子留学生が乗っています。
彼女は重病です。ワシントンの鉄道省に電報を打ち、会議してもらった結果、
この列車をモンロビアで臨時停車させなさいという指令がきました。
朝一番に止まるのは、終着駅のロサンゼルスではありません」

これは、現在で言えば新幹線を臨時停車させるくらい大変なことだ。

次の日の夜明け前に、モンロビアに臨時停車し、他の乗客に気づかれないように静かに駅に降りたところ、
そこには車椅子を持った看護婦さん達が数人待機していてくれた。

車椅子に乗せてもらい行こうとしたら、なぜか列車がざわざわしているので、振り返ってみてびっくりした。
一等、二等はもとより、全ての列車の窓と言う窓が開き、
アメリカ人の乗客が身を乗り出して口々に何か言っていた。

最初は、日本人である自分に何か嫌なことを言っているのかと思ったが、そうではなかった。
名刺や、住所や電話番号を書いた紙切れなどに、ドル紙幣をはさんだものが、
まるで紙吹雪のように、投げられた。

「死んではいけない。きっと助かるから、安心しなさい」、
「人の声が聞きたくなったら、私のところに電話をかけてきなさい」、
「手紙を書きなさい。寂しかったら、いつでもいいよ」と口々に声をかけてくれていたのだ。

彼女は、4.5メートル先に停(と)まっているはずの列車が涙で見えなかったという。

結局、3年間入院したが、その間、毎週毎週、見知らぬアメリカ人が見舞いに来てくれたが、
これも列車の乗客だった。

そして、3年間の膨大な手術費と治療費を払って出ようとしたら、
乗客の中の一人のお金持ちがすべて匿名でお金を払った後だった、という。


 


 


☆おいっ! 俺の友よ・・・もう何年だ?小学3年から20数年の付き合いか?


いろいろ書き殴りたいこともあるが・・・Lightは輝くよ・・・品川区のリーグ、もうじきにスタートをきるよ・・・永遠にな


どっかで見てろよ、俺を 仲間を おまえが優しさふりまいた・・・全ての人の、これからの生きざまを ずっと見てろよっ!


これからのキセキ ずっとずっと 見守っててくれよな 


今まで 俺の友でいてくれて ありがとね

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