サッカー回想録 中学校編 その2


さてその後どうなったか・・・

まずは、3年生最後の大一番、中体連予選に向けたメンバーに1年生が4人も入る事になりました。それは、先日の大会で新1年生チームながら3位という成績を残した事も要因の一つでしたが、おそらく監督が2年後を見据えての事だったと思っています。


しかしこれが、私達1年生にとって先輩達の風当たりが強くなる原因でもありました。

監督は学校の先生ではなく、学校のOBで消防署へ勤務していました。鹿児島の名門校である鹿児島実業で全国高校選手権へも出場した実績も持っていました。仕事柄、練習を指導できない日もありその時が我々にとって地獄でした。


理不尽な理由により、先輩達が練習を終えるまでひたすらランニング、挨拶が悪いとグランドの真ん中で長時間の正座、4人の1年生ももちろん集団責任で「愛の鞭」を受けました。

はっきり言って、我々1年生の方が・・・ それはもちろん禁句です。

しかし、その愛の鞭あってか我々1年生の基礎体力はどんどん上がりました。先輩達は自分達の首を絞めていたのかも知れませんね(笑)


しかしその理不尽な行動により1つ問題が発生しました。それは「新1年生の三杉淳」がサッカー部を辞め野球部へ行ってしまいました。それは理不尽な仕打ちを見かねた彼の親御さんの助言があってでした。本人も中学でサッカーをするか野球をするか迷った中でサッカーを選んだのですが・・・。本当に残念で仕方なく、また先輩達への怒りが湧いてきました。

この件により、先輩達の理不尽な愛の鞭は監督へ知られる事になり、多くの3年生、2年生が自主的に退部すると言う前代未聞の「大事件」となったのです。


そんな大事件後いい結果が残せる訳も無く、3年生最後の中体連は県大会早々に敗戦しました。そして新チームに移行する秋になりました。

先輩達と大きな壁ができたまま、表立った仕打ちはありませんでしたが、試合に出ている1年生へパスを出さない、出してもパスミス気味のボールだったり、それは外から見てる人にも分かるほど幼稚なものでした。


それを見かねた監督は、新チームは全員2年生に。1年生は単独でチームを作り、専ら監督の母校の高1との練習試合や親善試合的な大会などで実戦経験するという、ほぼチーム崩壊状態でした。練習中も自然と1年生、2年生に別れコミュニケーションなど全く無し。同じグランドで違うチームが練習しているようなものでした。

そんなこんなで、それからの1年間は公式戦「0試合」という私のサッカー人生の中で暗黒時代でした(笑)


でもその1年間が無駄ではなかった事を証明したのが、私達が2年生になり新チームとして挑んだ新人戦でした。高1とは言えど名門校を相手に多くの試合をさせてもらえた事、そして先輩達への怒りとも言える感情が、十分と言えない環境でも自分達を強くしてくれたんだと思います。地区予選は他を寄せ付けず無失点優勝。そして県大会も制し九州大会へ駒を進めました。これには監督もビックリしていたようですが(笑)

九州大会では、1回戦で長崎の名門、島原一中に1-4で破れ、天狗になっていた鼻を見事に折られました。これもいい経験の一つでした。


ここまでの1年半、経験しなくてもいい理不尽な仕打ちにより大切な仲間を失い、鎖国的チーム事情の中でみんなで頑張り、そしていつもそれを支えてくれた1年生部員の親御さんの存在を知り、いい事も悪い事も、多くの事を経験できた時間でした。

しかし思春期真っ只中の我々にとって、それは少し重過ぎる経験ではありましたが・・・。


やはり当時を思い出すと切りが無いですね。

経験とは、良い事も悪い事もありますが、そのどれもが自分の糧となると思います。


「経験は無駄にする事はあっても、無駄になる事はない」


その人の気持ち1つで決まるんでしょうね。


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