長松丸光忠の青春�

 普段なら何も考えずにいても、こうした好機には打ちごろの球が来る。それをいかに堂々と打ち、魅了出来るかが戦士たちの腕の見せどころ。
 だが今日は違う。
 久松は貧乏ゆすりしながら必死に知恵を絞った。記憶の片隅で埃を被っている戦略知識を探しまわった。
「む、む。うぬ。えい、くそ」
 狙って犠打など打たせたことはない。だが、やるしかない。
「長峰!」
 打席に入りかけた三番打者を呼び戻して耳打ちする。そう、将軍家の殿様野球に犠打の合図など無かったのだった。

 打ち気まんまんだった柳生派の長峰は眉をひそめた。
 手柄をむざむざ山賀に渡すなど……。
 武士の面子にかけてお断りと怒鳴りたいところだった。
 だが、冷や汗まみれで睨みつけてくる久松の滑稽さに加え、真っ白な顔でうつむき、一点を見つめて固まっている若君を見ると、なにやら意地をはるのも馬鹿馬鹿しくなった。
 まったく、己の撒いた種に怯えくさって。負けとうないのであれば、余計なことを言わぬがよいのじゃ!
 やけくそと言えばやけくそ。長峰は見せ場を失うかわりに打席で大見得を切った。
「貴様らよう見ておけよ! これぞ猿飛之太刀、浮舟じゃ!」
 当てるだけなら、新陰流にはお手のもの。 コテン、と球が内野に転がる。

 大見得切られ、身構えていた紀州軍は裏をかかれて「あっ」と言い、将軍家らしからぬ小技に驚いた観客は「え?」と言い、慌てた走者三浦は「うおっ」っとうめいて三の丸へ駆け込んだ。紀州の投手が素手で球を掴んで投げるも、間一髪セーフ。
 走者にも合図が必要だなんてことを久松はすっかり忘れていたのだが、とにかく三の丸を落とした瞬間、久松は飛び上がって手を叩いた。
「やったやった! でかした!」
 我を忘れて子供のように喜ぶ久松を、幕内の戦士たちは口をあけてポカンと眺めた。

(つづく)


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