
ASSE 松井大輔情報 VIVA!マツイ・ルネッサンス〜♪
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リオネル
2008年12月13日 02:19 visibility1129
なんかね〜
クラブ内の派閥であるとか
技術云々より好き嫌いであるとか
そんなことで有望な選手の芽を摘み取るな!
と言いたい。。。。
いきなり、興奮気味ですみません。。。。
もうね、ダイ!
よくぞやってくれた!って感じです。。
辛い状況でも
忍耐強く、不平不満を言うことなく
大和魂を見せてくれた!!
移籍後つらい
時間が長かったけど
やっとスタートが切れたようです。
現地で松井を見つめながら
定期的にレポートを送ってくれる
結城麻里さんの最新記事読んで泣きました。。
ちょっと長いですけど
前文コピペさせて頂きます。
“人生一番の谷底”から這い上がったマツイ・ルネッサンス
【海外通信員】2008年12月12日
なんで…。なんで、試合に出れないんだろう――。
松井大輔はこの言葉を、何度も何度も心の中で繰り返した。7月15日に名門サンテティエンヌに舞いおりてから、夏が過ぎ、秋が来て、やがて枯葉が落ち始め、冬の足音まで聞こえていたけれど、にがい心の問いかけは果てるともなく続いていた。
フランスには「ベンチを磨く」という表現があるが、この間の松井の仕事が、それだった。
14節(11月15日)までのリーグアン先発はたった3回、途中出場を含めたリーグアンのプレー時間は、わずか293分。リーグカップは一度だけ先発したが、楽しみにしていたUEFAカップは、この日まで、0分。
ベンチ磨き…。初めてだった。
妻や両親は何も言わず見守ってくれたし、愛犬シエルも慰めだったけれど、さすがに鬱屈した感情はつもり、気づくと買い物が増えていた。ショッピングすると、少しだけ憂さが、晴れた。
だが、「なんで…」の答えは、出てこない。
一般に移籍した選手には、2つの道がある。1つはしょっぱなから大活躍して認めさせる道、もう1つは徐々に環境に慣れて活躍し始める道だ。松井の場合は、あえて後者を選択していた。
「フランスで初めての移籍だったから、選手やチームやプレースタイルをよく理解しながら、ゆっくり準備したいと思ったんです。3年契約していたこともあったし」
上滑りして潰れるより、大事にじっくり、という判断だった。
しかし現実は、厳しかった。
出場機会が回ってきて、いい動きをつくっても、すぐベンチに逆戻り。かと思うと、先発チーム全体がうまくいかなくなったときに限って、松井を出す。そして救世主になれないと、制裁するかのようにまたベンチ。正直、「しんどかった」
プレーでも模索した。中へ中へと絞るオフェンスに疑問を感じ、外に開いてみるのだが、ボールは来ない。たまに来てクロスを放っても、ゴミスが決められない。するとまたベンチに戻された。
「いろんな人が、試合に出ていないというだけで自分を評価するのが厭だったし、また、出た途端にコロリと変わるところもね…。これがサッカーなんだなって思い知った」
それでも松井は、けっして監督批判をしなかった。
ただ、一度だけ、声を高めたことがあった。
10月末のこと、ルセイ監督(当時)が、国内リーグとUEFAカップをほぼ同じメンバーで乗り切ろうとしている無理を指摘されて、「12人か13人しか90分プレーできる選手がいないからこのやり方を続けているのだ」と放言した。まるで「控えが無能なせいだ」といわんばかり。普通の監督なら、「控えの選手は大切なグループの一員」と心から思い、また言うものである。
ところがルセイ監督は、レキップ紙がこれを批判的トーンで紹介した当日(10月26日)に、それへのあてつけのように、突然、松井に先発をふった。…それが松井の、なんと、ホーム初先発だった。しかも相手は日本がらみのグルノーブル。どこかにネガティブな意図が見え隠れしていると感じたのは、果たして私だけだったかどうか…。
だが、そんな報道事情まで知らなかった松井は、一種の罠にはまってしまう。というのも、チームはすでにガタガタで、松井が絡む以前に、守備の崩れからたった3分で勝負を決められてしまったのに、監督は真っ先に松井を45分でベンチに下げたのだ。レキップ記者に「ほら見ろ」といわんばかりに…。
貴重なホーム初先発をこんなかたちでフイにしてしまった松井は、さすがに試合後、「今日のレキップに何て書いてあったの?」と私に質問した。そしてローテーションの欠如に疑問を呈した記事だとわかると、「その通りだと思うよ、俺は!」と珍しく声の調子を上げた。「11人だけでやってるというか、あんまり他の選手のことは考えてないってのはあるかもしれないっす。みんなが悪いのに、俺たちが悪いみたいになっちゃってるから、それが悔しい」とも言った。だが、それ以上の言葉を自分に禁じるように、記者団に背を向けた。レキップに同調はしたけれど、監督批判はついにしなかった。
そして3日後の試合(29日)でもベンチに張り付けられた松井は、静かにこう語った。
「僕の人生の中で一番の谷底かもしれないけど、それを登っていけばこそまた自分の進化ができるんだと思う。人生ずっと楽しいわけじゃないし、苦しい時期も乗り越えないと、前を向けないし前がない。サッカーは僕の生き甲斐。だから楽しくなるようにしたい…」
にもかかわらずロメイエ会長は30日、「松井はニセモノなんじゃないか。従兄だか兄弟だか」と、ひどい皮肉をサポーター会合で吐いた。思えば、地獄の1週間だった。
それでも松井は、ひたすら、ただ一つのことを念じ続けた。「いつか必ずチャンスが来る。それを待とう」。自分にもそう言い聞かせ、ブログにもそう書き、記者たちにもさとすようにそう繰り返した。忍耐することもサッカーだ、と思い続けた。
そんな松井を、変わらずに支え続けたファンやチームメイトがいたことも、救いだった。
「コロリと変わる人もいたけど、同時にね、変わらずに応援してくれるファンやサポーターやチームメイトもいた。ジャノとかヨアンとかソジェがね、『絶対に大丈夫だよ。必ず君の時代が来るよ』って。しんどかったけど、これがサッカーなんだと思った」
ジャノはサポーター人気がクラブ断トツのGK、ヨアン(オットクール)はルマンの仲間だったMF、ソジェはしっかりしたDFだ。とくにジャノは、松井の才能をフランスメディアに堂々と訴え続けた(自分のことではつい怒りが爆発し、ホテルの窓ガラスを割ってしまったけれど)。
いまでは、「なんで…」の答えは、誰の目にもはっきりしている。
第一は、松井の能力不足ではなく、ルセイ監督の能力不足だったということだ。自身が元アタッカーだったため、オフェンス、とくにゴミスに心血を注ぎすぎたミスが1つ。グループ掌握ができず、ロッカールームはデルニス派とジャノ派に分裂、デルニスが監督に告げ口までするようなドロドロを許してしまったミスが2つ。実力も経験もリーダー性も抜群のジャノを外したミスが3つ。目標管理ができず、26年ぶりのUEFAカップに熱中するあまり、国内リーグとの両立ができなかったミスが4つ…。酷だけれど、やはり実力がなかったのだ。
第二に、複雑なクラブ事情も、めいっぱい絡んでいた。数年前から2人の会長と2つの派閥に分裂してきた歴史だ。「会長が2人いるという事実は知ってたけど、まさかこんなに複雑だとは思わなかった…」と松井も苦笑する。
早い話、ルセイ監督はロメイエ会長派に属し、松井はカイアゾ会長派によって獲得された選手だったのだ。しかも監督は昨シーズン、解任寸前まで行ったあと選手らに救われたため、そのメンバーしか信用しなくなって、そこにしがみついた。スポーツ部門の実権もロメイエ会長派に握られていた。だから、もともとルセイ監督には、“敵が送り込んだ松井”を重用する気など、なかった可能性が高い。松井が厳しい状況に陥ったのには、こうした背景もあったのである。
もっとも、クラブの名誉のために付け加えておくと、2会長は個人的に憎しみあっているわけではないらしい。ただ、フランス・フットボール誌記者によると、「ロメイエ会長は地元出身の“クラブ愛”派、カイアゾ会長はパリからきた実業家で“ビジネス”派。このためサポーターの多数は、やはりお金よりもクラブ愛を支持している。いずれにせよサンテティエンヌは、慢性的不安定に冒されているクラブ」だそうだ。
しかし、ともかく、歴史的連敗を重ねたルセイ政権は、崩壊した。11月10日、解任。11日、アラン・ぺラン新監督就任。待ちに待った実力派監督の到来だった。
15節(11月22日)。とうとうサンテティエンヌに雪が降った。対するはニース。64分、ついにぺラン新監督が松井を呼んだ。
「今日がデビューだと思ってやれ。今日から始まる」
その言葉を胸に刻んだ松井は、雪の中に飛び込んで行った。それまで分析してきたことが、全部プラスになった。雪の向こうに光りが差していたのを、松井は確かに、見た。
そこからは破竹の勢いだった。27日には、ブリュージュでUEFAカップに先発初出場し、紫電一閃、テクニカルなスルーパスを放ってゴールをアシスト。16節(30日)も先発し、煌めくスルーパスでナンシー観客のどよめきを呼んだ。
だがまだ肝心なことが残っていた。ホームで先発するという、本当の再スタートだ。
17節(12月6日)、その日がやって来た。松井は90分間、走り抜いた。鮮やかなフェイント、ワンツー、ミドルシュート、スルーパス、クロス、ロングパス、サイドチェンジ、鳩の翼にソンブレロ…。そしてきわめつけに、ヒールパスの起点で、ゴールを演出した。ショドロン(煮え鍋)と呼ばれるジョフロワ・ギシャールの観衆は、どよめき、沸騰した。本当の松井の姿が、ついにショドロンを魅了したのだ。
お金の論理ではなく、美しいサッカーの力が、勝利した瞬間でもあった。
試合後、感激したカイアゾ会長が、日本人記者団の前に進み出ると、突然、感きわまって語った。「私たちに見る眼がなかったせいで、こんな素晴らしい選手を冷遇して、日本人のみなさんにすまなかった。本当にすまなかった」
カイアゾ会長は、松井にも同じことを言った。松井はそのシーンを思い出す。
「僕は嬉しかった。すまなかったと言ってくれたこと、また言わせることになったことが、すごく嬉しかった。やっぱり、日本人が悪くみられたり、日本人はショボイみたいに思われるのは厭だし、ルマン時代のようにね、みんなに喜んでもらいたいと思うから」
翌日のレキップは、囲み欄に「われわれはついにマツイを見た」の見出しをつけた。
地元最大紙ラ・トリビューヌ・ル・プログレは、1面いっぱいに松井のプレー写真を掲げ、中の面には松井のプレーを特別に振り返った記事を掲載、「日本人は忍耐強く礼儀正しいことで有名だが、ダイスケ・マツイもこの5カ月間、その評判を裏切らなかった…」と書き起こしていた。
そして私はといえば、このストーリーに、誇りをもって、マツイ・ルネッサンスの見出しをつける。どんな谷底からでも、人間は這い上がり、生まれ変われるのだ、というメッセージを伝えるために。
(結城麻里=パリ通信員)
ここからがやっとASSEでのスタート地点かも知れない。
悪夢のアラン・ペラン政権は終わった。
後はチームも松井を軸に上昇するだけ
実現できた時。
別に何もなかったかのように
ヒョウキンに笑ってみせるダイの姿が
見に浮かぶ…
夏には共に笑いたい!!
頑張れ松井!負けるな!!
多くの声援を日本から送ります!!
君を誇りに思う。。
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