少年時代4

  • マッキ
    2011年03月23日 21:27 visibility47

高校3年の春季地区予選の後、県大会前に左の一さし指と中指を


骨折しました。


 


打撃練習の合間、マシンでバント練習をしていて、バットとボールの


間に指がしっかりと挟まれました。


ひとさし指と中指は、バットを握った状態から動かせず、ボールの


縫い目がきれいに付いていました。


すぐに病院に行っても、その状態のままでした。


生まれて初めての自分にとっては大きな怪我でした。


 


医師からは、指の怪我は一番痛むからと言われました。


夜に相当痛むと。


それどころではなく、痛みは感じませでした。


冷静ではなかったです。


 


指の痛み以上に、体全体が使えない、動かすことができない


ほど、痛みがありました。


それが一番つらかったです。


たかだか指の骨折くらいでと、歯がゆかったです。


 


高校2年の秋から、自分勝手に左打席に替えたた天罰かな


とも思っています。


でも監督は、入部当時から自分を左打席に、代えたかったこと


をうわさで聞きました。生徒の自主性を重んじる高校、練習に


ほとんど来なかった監督でした。うわさでは、畑仕事や少年野球


に夢中とも流れました。


しかし、県大会の時には、私立高校の監督や強豪の公立高校の


監督とよく談笑していました。そして、05年に高野連と朝日新聞の


表彰(イヤー・オブ・ザ・コーチ)されていました。


 


一言、監督に、左打席でやらせてくださいと言わなかったことを、


すごく後悔しています。


自主性を重んじた高校でも、筋はとおすべきだったと自分の中で、


いま、氷が融けるように、実感しています。


 


3年の春先のシート打撃では、エースから自分でも信じられない打球が


右中間を抜けたり、生まれて初めてのオーバーフェンスもありました。


最初練習試合の初打席でも、差し込まれてのレフトオーバーの2塁打


でした。


4月の定期戦でも、当時全国TVにもでていた左腕に臆することもなく、


送りバントも一発で決められました。


 


でも、その後、結果がでなくて、監督の前では、気まずい自分がいま


した。そして、初歩的なバント練習での骨折でした。


マシンにボールを入れていた主将が、入れ具合が悪かったと言って


くれましたが、それに反応できなかった、必然のことでした。


 


夏の大会は、スタメン落ち、監督のすばらしさを、今、やっとわかりました。


弟は、自分がスタメンをはずされ、周りに不穏な空気が流れたとひいき目


で、言ってくれました。多分、ひいき目じゃなくても、不穏な空気が流れて


いたと思います。


長い目で、自分のためにも、当人のために監督の采配だったと思います。


 


今になって、わかりました?考えました。


裏をとるつもりで、この時期なので、連絡をとってみます。


 


わだかまわりは、高校時に左打席で打たせてくださいの一言をいえないこと


でした。


 


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