☆ぶらり小江戸放浪記~水郷の町・佐原~

埼玉県の川越市、栃木県の栃木市、千葉県の旧・佐原市(現・香取市)は江戸時代の雰囲気が現在も残り、小江戸と称されている。
その特徴は、江戸との交易で栄え、蔵造りの町並みといえよう。
ところで、川越市には川越高校・川越工業・市立川越高校・秀明高校、栃木市には栃木高校・栃木商業・栃木翔南高校・国学院栃木高校と甲子園出場校があるが、佐原からの甲子園出場校はない。


ということで、今回は水郷の町でもある佐原の地を訪ねた。


 


 


佐原は、古くから水郷の町として栄え、街の中心を流れる小野川沿いは、古き時代を思い出す懐かしい町並みが残っている。また、足かけ17年をかけて全国を測量し、大日本沿海輿地全図を完成させた伊能忠敬の養子婿先の地でもある。


 



この佐原には、1900年(明治33年)に千葉県佐原中学校として創立された伝統を誇る佐原高校がある。佐原高校には千葉県のみならず、利根川を挟んで隣接する茨城県からも優秀な生徒が集まってくるようだ。


野球部の創部も1902年(明治35年)と古く、千葉県内では佐倉高校、千葉高校、銚子商業、成田高校、茂原農業(現・茂原樟陽高校)に次いで、成東高校と並ぶ歴史を有している。


夏の選手権予選には、銚子商、千葉師範、千葉中、成田中、成東中、茂原農、大多喜中、佐倉中、長生中、関東中に次いで、匝瑳中、八街農林と共に1930年(昭和5年)に初参加をしている。


夏の千葉大会における戦績は、優勝1回、準優勝2回、4強入り3回、8強入り6回、通算成績は75勝77敗である。
この75勝は、銚子商の233勝、成田の212勝、千葉商の182勝、習志野の169勝、市立銚子の156勝、市立船橋の148勝、成東の148勝、千葉敬愛の138勝、木更津総合の137勝、拓大紅陵の129勝、安房の122勝、東海大浦安の120勝、県立千葉の119勝、千葉商大付の112勝、専大松戸の108勝、千葉経大付の100勝、茂原樟陽の98勝、横芝敬愛の98勝、県立船橋の93勝、千葉工の84勝、長生の82勝、君津商の81勝、佐倉の81勝、八千代松陰の80勝、印旛明誠の79勝、千葉英和の76勝に次ぐ勝利数である。



上記の記述で、「あれっ?」と思われた方がいらっしゃるかもしれません。


夏の千葉大会の戦績で優勝1回となっているにもかかわらず、甲子園には出場していません。
夏の選手権大会が現在のような一県一代表制となったのは、1978年(昭和53年)の第60回大会からで、一部を除き殆どの県が一次予選(県大会)を通過し、二次予選(数県での地区大会)で優勝した学校が甲子園に出場できるという形式であった。
逆の考え方をすれば、1次予選の決勝や準決勝で負けたとしても、2次予選で優勝すれば甲子園に出場することができたという訳だ。


佐原高校が夏の千葉大会で優勝したのは、1949(昭和24年)であった。千葉大会決勝戦で成田を6-5で破り、埼玉との南関東大会に駒を進めた。しかし、南関東大会の初戦(準々決勝)で深谷商に0-2で敗れた。佐原高校は前年度も南関東に進出しているが、初戦(準決勝)で本庄に0-9と大敗を喫している。


佐原高校が最も甲子園に近づいた年は1951年(昭和26年)であった。
千葉大会で4強入りし南関東大会に進出、初戦で浦和商を7-3、準決勝では鴻巣を4-1で破り、二次予選初の決勝進出を果たした。しかし、熊谷に3-5で敗れ悲願は果たせなかった。その熊谷は甲子園でも活躍し、南関東、北関東勢としては初めて甲子園で決勝まで進出した。


1957年(昭和32年)には、今年も潜水艦の如くなかなか浮上しない讀賣さんで大活躍した「エースのジョー」こと、城之内投手を擁し、千葉大会決勝で成田に2-4で敗れたものの南関東大会進出。南関東大会では前回敗れた熊谷に2-0(3安打完封)でリベンジ、しかし、準決勝でまたしても成田に1-5と苦杯を喫することとなった。


 


 



佐原高校の現在のユニフォームは白地に胸に「SAWARA」のマークで、夏の千葉大会を初めて制した頃とほぼ同じデザインである。



高校野球中継で、水郷の町、小江戸佐原の風景とともに、伝統ある佐原高校が紹介される日は来るのだろうか?


 


 


以上です。

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