ソフトな優男、高田繁の時代。

  • Miya
    2007年10月22日 14:39 visibility18506


ジャイアンツのエイトマン(背番号8)といえば谷ではなく、

仁志でもなく、原でもなく・・・高田繁である。

 




そんな世代の私にとって高田は王、長島に次ぐ巨人の看板選手だった。

 

1967年ドラフト1位で巨人軍に入団。

 

奇しくも、あの星飛雄馬と同期である。

 

1年目から打率3割・20盗塁をマークし新人王を獲得。走攻守揃った外野手として巨人のV9を支えた。

外野フェンスに当たった打球がどのように跳ね返るかを先読みし、2塁打となる当たりをシングルヒットにとどめる特技を持ち、「壁際の魔術師」と呼ばれた。

 

 

甘いマスクでクールに仕事を決める、文句なくカッコいい選手だった。

 

さらに長島監督のもとでも高田は輝きを増す。




1976年、チーム事情(1974年の長嶋茂雄引退に伴う正三塁手不在、ならびに1975年の張本勲外野手のトレード加入)により、サードにコンバートされる。

 

三塁でも外野時代と変わらぬ好守備を見せ、内野でもレギュラーとして定着、ダイヤモンドグラブ賞も獲得した。

 

 

 

 この時の三塁コンバートは印象深い。

 

 

外野から内野へのコンバートというのは珍しいし、高田が31歳というベテランの年齢にしての大転機。

いわばいちかばちかの大勝負である。

エリート育ちの優男が泥のまみれて特訓を繰り返し、その博打に勝った。

 

高田は実に男前だった。

 

しかも、過去3年間低迷していた打撃も復活して、打率305をマークしたのだから恐れ入る。

 

 

 

1980年、中畑清の台頭や長嶋茂雄監督の解任に伴い、王貞治と同じくして35歳で現役引退。

 

もし王、長島と同じ時代に生まれていなければ、間違いなく「高田の時代」を築いていたはずである。

 

 

そつのないソフトな男、というイメージがあるが、実際はどうなのだろう。

 

 

荒くれ者揃いで知られる浪商高出身であるからか、

実は武闘派だった。

 

大学の1年後輩で、球界きっての武闘派として知られる星野仙一が、全く頭の上がらない人物の1人である。

 

大学時代は、明治の「御大」こと島岡吉郎監督にもっとも可愛がられた優等生であった。

主将を務めていた時期も、鉄拳制裁のスパルタ教育で知られた島岡に、一度も殴られなかった。

 

歴代主将で殴られずに卒業したのは高田と星野だけだったという。

 

 

 

1976年、巨人に移籍してきた張本勲に対して「巨人では俺の方が先輩」という理由でため口をきいた。

張本は高田の出身校・浪商高の大先輩にあたり、また当時パ・リーグの暴れ者として知られた日本ハムの中でも、特に一目置かれる存在であった。

 

高田が隠れ武闘派であったことを示すエピソードの一つであろう。




現役引退後は日ハム監督、巨人コーチ・二軍監督を歴任するが、ぱっとせず。

 

このまま終わるのかと思いきや、2005年に日ハムのGMに就任するやたちまち頭角を現わす。

 

編成に卓越した能力を発揮し、ご存知の通り、日ハムを連覇できる常勝チームに仕立て上げた。

 

 




おお!ついに高田の時代が来た。

 

 

こういう形で来たのか・・・なるほどなぁーと感心していた。

 

 

まさしくGMというのは硬軟をあわせ持つ高田にうってつけのポジションなのかもしれない。

 

球界は高田の成功を目の当たりにして、GM職をさらに重視するようになるだろうと思った。

 

・・・んで、古巣・巨人にもGMとして戻ってくるのかなぁと勝手に期待していた。

 

 

 

ところが、

GMを辞して、ヤクルトの監督として就任する

というではないか。

 

 

なぜまた監督に・・・現場で泥にまみれるのがやはり好きなんだろうなあ。

 

せっかく名を残す好位置を確保できたのに、再び血なまぐさい戦場へ舞い降りた高田。

 

 

 

どんな野球を見せるのか、とくと拝見させていただこう。











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