鉄のカーテンの向こう側でディナモ・キエフが実践した『東のトータルフットボール』◎サッカー世界遺産第39回

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    2021年06月13日 01:28 visibility58

文◎北條 聡

 

サッカー史に残るクラブや代表チームを「世界遺産」に登録していく今連載。今回は、旧ソ連のフットボールの歴史を大きく変えたクラブを取り上げる。今回紹介するのはデータに基づく緻密なチームづくりで、欧州で大きなインパクトを残した1970年代から80年代のディナモ・キエフだ。

 

ソ連最強軍

 かつて「鉄のカーテン」の向こう側に、ヨーロッパを震撼させる強大なチームがあった。世界がまだ、東西両陣営に二分されていた冷戦期。ソビエト連邦の一角を占めていたウクライナの名門ディナモ・キエフは西の強豪も恐れる東の刺客だった。

 

 そして、1980年代の半ばに最強軍が現れる。破竹の快進撃でヨーロッパ三大カップの一つであるカップウィナーズカップの栄冠を、やすやすと手中に収めた。

 

 そこで人々を驚かせたのが攻守に切れ目のない速戦即決だ。しかも、精密なロボットのように全員で守り、全員で攻めた。それはオランダの革新と似て非なるもの。言わば「東のトータルフットボール」だった。

 

 ヨーロッパの旧共産主義国家にはディナモの名を冠したクラブがいくつもある。その多くはかつて秘密警察と強いつながりを持ち、公的資金の調達など多方面で支援され、有利な立場にあった。旧ソ連のディナモ・モスクワはその好例だ。泣く子も黙るKGB(諜報機関)を後ろ盾に1960年代の半ばまでソ連リーグ最多の優勝回数を誇っていた。

 

 対抗馬はスパルタク・モスクワと軍の配下にあったCSKAモスクワくらい。ところが、1960年代後半から国内の勢力図が大きく変わっていく。当時ソ連の構成共和国の一つだったウクライナの強豪ディナモ・キエフが、モスクワ勢に鋭い牙をむいたからだ。

 

 初優勝は1961年。そこからソ連の解体に伴い、リーグの開催に終止符が打たれる1991年まで数々のタイトルを獲得し、ソ連最強軍にのし上がった。

 

 最大の戦果と言えば、二度にわたるカップウィナーズカップ制覇だ。ヨーロッパのメジャータイトルをソ連に持ち帰った最初で最後のクラブでもある。

 

 先導者がいた。

 

 東の智将バレリー・ロバノフスキーだ。1974年から16年間に及ぶ長期政権を築き、西側陣営の名だたる強豪と伍して戦う強力なチームをつくり上げた。試合中にベンチで微動だにしない姿から「石像」と呼ばれたが、その実は勝利の方程式を追い求める探究者。しかも、西欧の常識とは大きく異なる独自の思想をもって、革新に挑み続けた。

 

科学的思想

 ロバノフスキーの最高傑作は、カップウィナーズカップを二度目に制した1986年のチームだ。決勝のスコアは3-0。のちに「賢者」の異名を取ることになる指導者ルイス・アラゴネス率いるスペインの強豪アトレティコを、まったく寄せつけなかった。

 

 全員で守り、全員で攻める。

 

 彼らの戦いぶりは1970年代のオランダを彷彿とさせるものがあった。言わば、ソ連版トータルフットボールだ。ただ、違いがある。最強キエフを産み落とす過程で思想的な幹となったのは「科学」だった。

 

 当時のソ連と言えば、宇宙開発や軍事部門でアメリカと技術力を競った科学大国。1970年代に入ると、国策としてスポーツ界にも資金が投じられ、競技力向上の科学的な研究が進められた。ロバノフスキーは時流に敏感だった。ディナモ・キエフの監督に就任する以前から物理大学の要人を協力者に迎えて、データ分析や統計を活用しながら、独自の理論を固めていく。

 

「1試合に犯すエラーの割合を、18%以下に抑えられるチームは、まず負けない」

 

 この有名な言葉も統計に基づくものだった。いかに相手のミスを誘い、自分たちのミスを減らせるか。指揮官はその手立てを考え、チームに落とし込んでいった。

 

 なかでも力を注いだのはゲームモデルの合理化だ。練習を通じて複数の攻撃パターンを刷り込み、選手たちはそこから局面に応じて最も適したものを選択していく。つまり、これという「形」を用意したわけだ。

 

「モダンサッカーでは時間も空間もない。だから各選手はボールが来る前から、次にやるべきことを理解しておく必要がある」

 

 ロバノフスキーはそうした考えからアメフト的な手法を採り入れている。あらかじめ、全員の共有する形があれば、判断に迷うことも少ない。次にどこへ動き、誰にパスを出せばいいかが事前に分かっているからだ。

 

 実際には個人差がある。そこで試合ごとに選手たちの強度、活動性、実行力、失敗率などを細かく測定したほか、選手同士の相性まで分析を試み、最も生産性の高いイレブンを選りすぐった。

 

 だから極端な弱点を持つタイプは皆無に近い。ピッチに立つのは総合力が高く、しかも一芸に秀でた人材ばかりだ。こうして攻守に迷いなく動き回る「時計じかけのキエフ」が出来上がった。

 

速戦即決主義

 

ロバノフスキーという戦術家の一大特徴は速戦即決にある。反撃に転じたら即座に敵の防壁を破壊することだ。敵が堅陣を敷く前に叩いてしまう。それが最も効率がいい。そうした合理的発想からたどり着いた戦術思想である。

 

 ならば、攻撃陣に求めるものは何よりもまず機動力――そう考えても齟齬はない。事実、ロバノフスキーは一貫してスピードに優れた韋駄天を重用し、大きな戦果を上げてきた。

 

 1975年のカップウィナーズカップで初優勝に導いた快足オレグ・ブロヒンの活躍が始まりだ。あだ名は『ウクライナの矢』である。その二代目が1990年代の後半に現れるアンドリー・シェフチェンコだった。

 

 当然、最強キエフにも鋭い矢があった。前線で重鎮ブロヒンとペアを組むイーゴリ・ベラノフだ。小柄だが、右足から強烈な一撃を放つシューターでもあった。

 

 しかし、新旧の矢だけが速攻の決め手だったわけではない。大外からの切り崩しも速く、巧みだった。特に、右の矢となるイバン・ヤレムチュクは縦への仕掛けで敵を手玉に取り、西のつわものたちを大いに苦しめた。

 

 攻撃陣に逸材がそろったのも強みだが、ロバノフスキーは陣形にも工夫を施している。前線の2人と両ウイングを軸に攻め込むのがクラブの伝統だったが、2トップの背後に5人目の襲撃者を据えて攻め手を増やした。

 

 この当たり役を得て躍動したのが小さな魔術師アレクサンドル・ザバロフだ。

 

 この人こそチーム随一の技術と創造力を誇るキエフの弓だった。4本の矢が面白いように敵の急所を射抜いたのも、クラブ史上最高の弓の使い手がいたからだ。いつでも、どこでも、ボールを奪ったら全速前進。わざわざ相手を自陣に引き込み、一発で背後を突くようなカルチョ風の駆け引きは一切しなかった。

 

 そもそも守りを固める必要がない。ほとんどの試合で攻めていたからだ。ただ、守備側の人数もそろってしまうから、速攻を仕掛けにくい。それでも、攻めあぐねるケースは滅多になかった。ボールを動かす力があったのも確かだ。しかし、決定的な理由はそこではない。未来を先取りする仕掛けに秘密があった。

 

プレッシングの先駆者

 攻守が入れ替わった瞬間、守備側に回ったチームは危機に陥りやすい。敵の攻撃に対して、すぐに反応するのが難しいからだ。後手に回って、攻撃側との間に小さなタイムラグが生じる。最強キエフはこの時差を巧みに利用した。ボールを奪うと、足が止まった守備者をしり目に休まず攻めたわけだ。

 

 時は金なり――である。

 

 もっとも、速攻大国のイタリアにも同じ発想があった。ロバノフスキーの先進性は時差の利用機会を拡大したことにある。つまりは攻守の切り替えの量産。しかも、それを敵陣から試みた。

 

 フォアチェッキング――当時はそう呼ばれていた。

 

 もともとはアイスホッケーの用語である。攻撃が失敗した後に、自陣に戻らず、敵陣でチェックを続けてパックを奪い返す戦術だ。

 ソ連は言わずと知れたホッケー大国。その戦術をサッカーに転用できないか、と考える指導者がいたとしても不思議はない。実のところ、ディナモ・キエフはすでに1960年代からフォアチェッキングを採り入れていた。ちょうどオランダでプレッシングの革新が始まった頃である。

 

 ソ連版プレッシングの創始者はビクトル・マスロフ。ディナモ・キエフの第一次黄金時代を築いたモスクワ生まれのロシア人だ。冷戦の最中、奇しくも西と東で戦術史を一変させる革新が起きていた。ロバノフスキーはマスロフの遺産を受け継ぎ、現代への橋渡し役となったと言っていい。

 

 最強キエフのフォアチェッキングは、ボールの即時奪回を試みるゲーゲンプレッシングの源流だ。そして、敵陣で繰り出す鋭い速攻は現代で言うショートカウンターの原型だった。

 

 東から――いや未来から現れたようなチームに西の強豪が面食らったのも当然だろう。速く、切れ目のない攻守のテンポ、寄せ手の迫力と激しさを伴うプレッシングの強度は別の次元にあった。

 

 この輝かしいソ連版トータルフットボールはしかし、西側の話題をさらうまでには至っていない。ヨーロッパ最強クラブのお墨付きを与えられるチャピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)の王者ではなかったからだ。

 

 ソ連王者として最大の覇権争いに挑んだのは、カップウィナーズカップ制覇の翌86-87シーズンのことである。本命の呼び声も高かった。事実、ベスト4まで勝ち上がり、王座はすぐ目の前にあった。

 

全速先進の落とし穴

勝敗は時の運。常に強い者が勝つとは限らない。最強キエフも、そうだった。

 

 準決勝で西の刺客ポルト(ポルトガル)に敗れ、姿を消すことになる。名将ロバノフスキーの野望は叶わずに終わった。確かに敵地でも本拠地でも相手を圧倒した。強かったのは間違いない。ただ、死角があった。

 

 人数をかけてゴールに迫る波状攻撃がしばしば過剰攻撃と化し、敵のカウンターアタックをまともに浴びてしまう。全速前進、徹底攻撃の落とし穴だった。

 

 後ろは5人。4人のバックスと手前に陣取るアンカーのパペル・ヤコベンコだ。彼らはスイーパーを残してガンガン攻め上がる。ストッパーのオレグ・クズネツォフもそうだ。ほぼ中盤の底に構え、ヤコベンコとともに配球役をこなすだけでは飽き足らず、前線まで進出することすらあった。

 

 中盤が薄くなりやすい。フォアチェックが効かないと、後ろに残った選手のカバーする範囲が広すぎて逆襲の阻止が難しかった。ポルトの前線に単騎駆けの異才パウロ・フットレがいたことも、不利に働いた。広いスペースでの1対1では止めようがない。それが実際に起きての敗退である。

 

 常に押しの一手。西の試合巧者を相手に勝ち切るには、駆け引きも、狡猾さも足りなかった。戦法のみならず、なぜか弱点までオランダとよく似ていた。

 

 いったん歯車が狂うと、修正が効かない。簡単に自爆スイッチが作動する。まさにプログラム通りに動くマシンだった。

 

 それでも、ツボにはまれば強力で、魅力的なチームとして映る。しかも、未来を先取りする要素に満ちていた。最強キエフの値打ちはそこにあったはずだ。西のオランダで途切れかけていたトータルフットボールの糸は、東のウクライナでしたたかに紡がれていた。その流れはソ連の崩壊によって途絶えたが、20年あまりの空白を経て、ドイツ人たちがその糸をたぐり寄せていく。

 

 ユルゲン・クロップやラルフ・ラングニックらの手掛けるチームがそうだ。ゲーゲンプレッシングを旗印に掲げ、スピードスターを前線にそろえる前のめりのフットボールは、それこそ最強キエフの現代版だろう。

 

 先駆者はそれを見ていない。

 

 すでに2002年5月、ロバノフスキーはこの世を去っていた。だが、科学の力に着目し、未来を見通した男の大いなる夢は、いまも生き続けている。

 

サッカーマガジンWeb編集部

 

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