山岡政志がいた夏
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篠山鳳明
2024年08月25日 02:58 visibility327
山岡政志がいた夏
1975年の第57回全国高校野球選手権大会は7月20日から始まった。
丁度、桜田淳子の「気まぐれビーナス」という曲が流行っていた頃である。
当時は一県一校ではなかった為、秋田県で勝ち抜いても青森県代表と甲子園出場を掛けて戦う奥羽大会が有った。
その年の秋田県の優勝候補の筆頭は、久々の甲子園を目指す能代高校であった。
エース鈴木誠がいた、打線も充実していた。
また県南の大曲農業には久保市昭一と言われる秋田県一いや東北一と言っても良いスラッガーがいた。
青森県には、メキメキと力を付けた弘前工業、古豪の弘前実業などが手薬煉を引いて待っている。
秋田商業の今川敬三はエース山岡政志、スラッガーの武藤一邦を擁して虎視眈々と甲子園を狙っていた。
予想通り秋田大会準決勝で十和田を0-8で破った能代、経大附の好投手目黒を3-2で下した秋田商業が相まみえた。
今でも語り継がれる壮絶な打撃戦で13-9で秋田商業が勝利して、青森市営球場で訪われる奥羽大会へコマを進めた。
大曲農業は弘前高校を、秋田商業は弘前工業の西谷、大湯の両投手を攻略して秋田県の高校同士が青森市営球場で決勝戦を行う事になった。
決勝戦の構図は
山岡🆚大農打線。特に山岡と久保市の対決に注目が集まったのだ。
常に大曲農業が先行したが、秋田商業が追いつき、最後は秋田商業がうっちり、4-3で辛勝7回目の甲子園出場のチケットを手に入れた。
大農のスラッガー久保市は山岡から1安打、2打点をあげ、3番打者としての役割を見事に果たしたのであった。
そして、秋田商業は満を持して甲子園へ乗り込むのである。
(出典元:秋田商業野球部100年史、アサヒグラフ第57回甲子園大会號、週刊朝日甲子園増刊號)。
★文書構成上敬称は略させて頂きました。
- 事務局に通報しました。
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