
広瀬吉治と浪商
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篠山鳳明
2025年08月07日 05:59 visibility256
第51回選抜大会決勝戦の箕島🆚浪商の対戦で私は目を疑った。
浪商の広瀬監督の箕島四番打者北野の敬遠の指示を牛島が無視したのである。
伝令が投手牛島の所へ走る。
監督の指示を伝える。しかし牛島は『誰が投げてると思ってんだ!黙って見とけ!』と伝令に伝えた。
全く持って信じられなかった。
あの当時監督の指示をは絶対だった。
案の定牛島は北野に三塁打(記録上は二塁打)痛い追加点を与える
牛島らしいと言えば牛島らしいのだが。
広瀬吉治氏
戦後間もない第28回全国中等学校優勝大會に怪腕と言われた、サウスポー投手平古場投手とバッテリーを組んで出場し、自身は2本塁打を西宮球場で放ち優勝に貢献している。
その後は法政大学ではマスクを被り、神宮の杜でもプレーしている。同じ時期には松永氏(法政)、篠原一豊氏(立教)、末吉氏、福嶋氏(早稲田)等がいる。
1953年に洲本高校の監督に就任。
同年選抜大会に初出場、北口投手の力投等も有り、決勝戦では母校の浪華商業を破り初出場初優勝を成し遂げ『瀬戸内少年野球団』と呼ばれた。
その後1968年に浪商高校の監督に就任。そして1979年に後にプロに行く牛島→香川を擁して決勝戦まで進むが、打撃戦の末に惜敗してしまったのだ。
浪華商業と言えば、
平古場氏、坂崎氏、張本氏、高田氏、山本集氏等錚々たるOBの方がいる。
このなかで山本集氏は奈良智辯学園の初代監督としてその伝説は今でも語り継がれている。
1921年浪華商業実修学校として大阪天王寺区に創立。
1924年に浪華商業と校名を変更して今年で101年。
あの51回選抜大会で優勝していれば、浪商も変わっていなのであろうか?、そしてまた広瀬氏の人生も違うものになっていたのかも知れない。
暫くの間ご無沙汰の浪商。大体大浪商に校名が変更になっても昔から脈々と生き続けている浪商のDNAは変わらない筈である。
此処から捲土重来を期待している。
☆名将烈伝(ベースボールマガジン社)
☆昭和のスポーツ史NO1(ベースボールマガジン社)
☆毎日グラフ第51回選抜大会(毎日新聞社)
☆浪商野球部50年史(浪商野球部 編纂)
☆高校野球ユニフォームセレクション(洋泉社)
より写真引用しました。
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