球都桐生の礎を作った男(稲川東一郎)

球都桐生の礎を作った男(稲川東一郎)

稲川東一郎

 

1905年10月25日福島県で生まれる。

 

1915年桐生市へ移り住み1921年に旧桐生中学4年時に自ら硬式野球部を創設した。

 

卒業後は母校の指導にあたり、自宅に『野球道場』と称して練習上を作ったり、基礎体力を付けるウエートトレーニング場を作った。

 

所謂私財をなげうち全精力を桐生中学の為のに使った。

 

バントや走力を駆使し、俊足者はスイッチヒッターに変えたりし育成、同校を群馬県屈指の強豪校に育て上げた。

 

甲子園2回準優勝(1936年春第13回、1955年春第27回)し、社会人野球に置いても全桐生を率いて1946年に準優勝している。

 

やはり稲川東一郎氏と言えば有名なのは1955年時の春の甲子園。

 

浪華商業の坂崎一彦との勝負、決勝戦前夜物騒な話しであるが藁で坂崎に模して人形を作り、それに坂崎大明神と書いた人形を宿舎の各場所に貼っていた。

 

それまで徹底的に坂崎を敬遠していた桐生高校のエース今泉喜一郎が、稲川東一郎は敬遠の指示をしたがエースのプライドを掛けて勝負したが、2ランホームランを打たれて紫紺の大旗を逃している。

 

稲川東一郎には悔やんでも、悔やみきれない場面であった。

 

1967年4月15日、伊勢崎市野球場での公式戦で突然倒れ帰らぬ人となった。

 

享年61歳であった。

 

教え子で有名なのは立教大学の監督だった齋藤章児と、アトランタオリンピック日本代表監督の川島勝司、青山学院大学監督の河原井正雄、慶應義塾大学監督の相場勤等がいる。

 

その中でも川島勝司は日本楽器(ヤマハ)を三度の都市対抗優勝に導いている。

 

地元の浜松市では『神様、仏様、川島様』と言われた程である。

 

日本楽器(ヤマハ)三度の都市対抗優勝は全て川島が率いたものである。

 

稲川東一郎

 

まさしく、桐生に生きて、桐生中学、桐生高校に一生を捧げた野球人生

 

彼が居なければ、桐生は球都とは呼ばれていないはずである。

 

 

 

 

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