「ゾーン」に魅せられて―ジューダス・プリーストと投球フォーム2

※あくまで私の個人的体験を元に分析を加えたものですので、多大に感覚的な要素を含んでおり、必ずしも科学的に検証されたものではございませんし、また身体操作の技術に関しましても、他の方に援用できるものか、私からは保証できかねますことをご容赦下さい。

 

前回投稿後すぐいいね下さった方

ありがとうございます!
自分で反応くれと言っておいてアレですが、

まさかあの雑な書き込みにいいねくれる方がいると思ってませんでした!

正直誰かに読んでもらえるとすら思ってなかったです(笑)

前回の文章にはあからさまに間違ってる不注意なところもあったりして今は反省していますが、人に見られているのが分かったわけですし、もう少しくらいは気を引き締めてやらなきゃなと感じてます…。

 

 

―ゾーンに入ったとき瞬間のはなし

 

自宅にてゾーンに入ったと確信したあと、私はその効果が切れないうちにすぐピッチング練習をしなければならないと思った。だが夜だったのもあって周りも暗く、近所の公園に壁当てに行くこともできないし、その時間も惜しい。そんな折り、丁度近くに捨てるはずだったバネが壊れかけだが、分厚く硬い素材で出来た折り畳み式のソファがあったので、それに向かって軟球M号を投げつけてみることにした。もはや完全体となった私のフルパワー剛速球でそのショボいソファが壊れてしまわないか少し心配はよぎったのだが、結論を言うと特段問題はなかった。

 

その体験が訪れると、
自然に歯の噛み合わせが合う、
自然に内臓の位置が適切になる、
自然に背骨が適切な角度になる、
自然に呼吸が深くなる、
自然に…、自然に…、
そういった経験をした。

如実に実感したのは足の裏が地面にペッタリと着いたことだ。私は普段いわゆる「浮き指」と言われる足裏の状態になっていることが多く、

足裏が地面(本当は床)を完璧なくらいに噛んでいる感覚は素晴らしく気分のいいものだった。
そうして全部自分でよくなってしまうと、

野球動作において
意識しなければならないことが格段に少なくなっていく。普段の我々は体を動かすということにおいて、意識しなければならないことが多すぎるのだ。

 

反復練習の効果は確かに絶大だ。

ただ、人の意識は自律神経が可能にするほど身体に調和のある精緻な動きをさせることはできないし、出せる信号に限界がある。

私見だが、身体はそもそも効率的に絶大なエネルギーを生み出す方法を「生まれつき」知っているとしか思えない。

つまり、ゾーンのような状態は、

反復練習で後天的に身につけさせるというよりは、脳のどこかの解放によって自然にそれが「動き出す」ものなのではないかと思う。

それは前回言った
脳内麻薬の話に繋がる。
痛みがなく、
緊張もなく、
自由な身体。頭から爪先、四肢に至るまで優れた感覚に充実した身体は、身体本来の求める姿を体現しているようだった。

 

孟子こと孟軻は、人は生まれつき善い心があるのにこの世界に生まれ過ごすうちに、みな悪に心を上塗りされてしまうと説いた。―性善説だ。
逆に荀子こと荀況は人の心は本来悪なのだから、それを善の心に変えていかなければならないと説いた。―性悪説。

 

彼らの文章の著作権は切れているため読むのは無料である(通信料はお客さまのご負担となります)。詳しいところは実際に読んでいただきたいのだが、

彼らの説は現代科学の見地からすれば、

正しいところもあるが、

間違っているところもある。

確かに孟軻の言うとおり、彼の主張の肝である四端に当たるような、思いやりを司るような脳の働きは存在する。

だが、それが阻害されてしまうのは必ずしも学習によるものではない。

また、人間には思いやりを働かせる機能も搭載されているが、暴力的衝動、功利的欲動も脳は表現出来てしまうし、人は善(いいとされること)の因子も悪(悪いとされること)の因子もそのどちらもを持って生まれると考える方が自然だろう。

もちろん科学もへったくれもない時代の説なので正確性に期待しすぎるのもおかしいとは言える。

 

そしてその定義で言う善にしても、悪にしても、人それぞれ生まれつきであったりなかったり、発現しているものと、発現せず内包しているものがあるように思う。(またそれら善と悪とは実際は互いに影響しあっており、そこにまた、善悪を二元論で片付けられなくなる割り切れなさが見られる。)

 

そしてそれは身体も同じなのではないか。素晴らしい動きを可能にする因子と、それを阻害する因子、どちらも元から持っているのが人間という生き物なのではないかと思う。

その中でもよく聞くのが「リミッター」という概念だ。病気や障害(disability)が身体の求めるものを阻害するのは当たり前と考えられているが、人の自由を阻害するのはその2つだけではない。

剣の道では戦いの最中に動きが止まる原因の代表を四つに分け、それを四病、または四戒と表現している。驚(おどろく)・懼(おそれる)・疑(うたがう)・惑(まどう)。その四つだ。

 

我々の兄弟種、チンパンジーやゴリラは人に比べると月とスッポンの差があるほど、怪力を持っている。人も火事場の馬鹿力のような例を見ればかなりの腕力を最初から持っているものなのだと思うが、なぜかそういう特殊な例を除いて、大抵の場合は力みすぎたり、力が抜けて上手く体をコントロールできなくなる。

それを分析した一つが、四病だが、

つまりそれを克服できればもう即剣の達人ということにもなってしまう。

猿がそんな下手をやるだろうか?

人はこと戦闘という局面においてはあまりにも弱すぎるようだ。

 

ただ、そうは言っても、

実際達人というものはいるのである。

そういう人は獰猛な動物ほどではなくとも、

武器があれば勝ちを拾える可能性があるくらいの強さはあるだろう。

力を出そうとすればするほど力が発揮できなくなる矛盾。力み。リミッター。

達人はそれを訓練で外すわけだが、

ではなぜ達人でもなんでもない私が、

ほんの数十分の間でもそれがリミッターが外れたかのような体験が出来たのだろうか?

それを考察するとやはり脳内麻薬の話が出てくる。

一般に麻薬は痛みを和らげることが出来るとされる。なので末期ガンの患者なんかにも使われるわけだが、

外から摂る麻薬は依存性、禁断症状や酩酊状態、脳の萎縮など様々な悪影響を及ぼすのに対し、

内因性のもの、つまり脳内麻薬でそういったことがあるというのはあまり聞かない。

 

実際私はトリップしたことがある。

麻薬など摂取したことはない。

ただ軽く目をつむって心を落ち着かせることに集中しただけだ。

そうしたらヒンドゥー教のヴィシュヌ神の絵が見えた。あの青い肌をしたあちら独特の絵だ。

ヒンドゥー教の知識などほぼ無かった私になぜそれが見えたのか今でも不思議なのだが(実際その絵がヴィシュヌとわかったのも後でネット検索して比定したからだ)、ともかく、それは急に目の前に現れた。しかも音楽まであった。映画AKIRAのBGMのような子供が合唱しているような曲だ。多分、その少し前にAKIRAの上映会に行って映画を観ていたのが原因なのだが、それより、その絵も、音も、今までの人生で体験した中で一番の解像度だったのは新鮮な感覚だった。

目や耳を介さず直接脳が出しているのだから、当然と思われるかもしれないが、

ほぼ馴染みのないヒンドゥー絵画までハッキリと見えたのは、どこかでチラッと垣間見たものでさえ、脳はそこまで明確に記憶しているということなのかと、ちょっと信じられない気持ちだった。

走馬灯、タキサイキア現象など、生死を争うとき人は日常では考えられない力を発揮するという。臨死体験もそうだが、臨死体験は宗教的なビジョンを伴う場合が非常に多いと言う。

そしてそれはやはり臨死体験を体験する個人の宗教によって出てくるものが、仏だったり天使だったりするらしい。

あの体験も臨死体験のようなものだったのだろうか?

ふむ、そう考えるとあのとき別に死にかけたわけではないのだが、私は難病を十年以上患っており、それによって脳が何らかの危機を感じていてもおかしくないかもとは思わされる。実際のところはよくわからないが。

まあ、そうしておくとして、ではヒンドゥー教徒でない私があのビジョンを見たのはなぜかという疑問が当然湧いてくる。

それは多分なのだが、本邦の国教である神道には神の姿を絵や像に表すという慣習がなく、そもそもビジョンを見ようがないのと、仏教の場合は仏像があるが、ヒンドゥー絵画の方がなにかより「神」っぽいイメージがあるというか、幼い頃に感じた女性の魔力、底知れなさみたいなものへの憧れを投影しやすい存在なのではないか、つまり、宗教にあまり興味のない私が興味のあるものと、宗教的な崇高な脳が出したいイメージの間にあるものに、一番近いのがそれだったのではないかと思う。

 

話が脱線した。

そこまで極端なトリップはそうなかったが、そういうビジョンを何度か見たときの共通点として、正気に戻ったあと身体が楽になるというのがある。

例えばトリップ前に肩こりがあったり、なんとなくダルさがあったりした場合でもそれがスッキリ取れていたりする。

そしてトリップがハッキリしていればしているほど効果も大きかったと記憶している(最近は仕事で忙しかったせいかトリップはなくなった)。

そう考えるとやはり、それは麻薬の鎮痛効果に近いのではないか。

 

脳内麻薬が鎮痛効果をもたらし、

更には身体の抱えていたストレス、トラウマ。

同様に心の抱えていたストレス、トラウマまで鎮めてしまったのではないかと思う。

難病によって鎮痛剤が必要になった身体が実際鎮痛剤を自らの機関によって生み出してしまうと、普通に生きている人が感じる苦痛まで消し去ってしまった。

だから、用意の出来た身体、外部のストレスの影響を受けにくい身体を一時的にせよ手に入れられた。そう考えるのは話が綺麗すぎるだろうか。

 

球速の話をする。
今現在私の投擲力(投げる力)は軟式で100km/h出ればいい方なのだが、
あの時の球は140km/h代後半は出ていたのではないかと思う。
もはや超常現象ではないか。
ただそんな体験の中にもやはり悔やまれるところはあって、その一つは上に挙げたような馬鹿げた回復力にあっても、握力、思考力など完全には戻らないところがあったことだ。実は私の病気は握力が極端に弱くなる病気と言われているのだが、そこは回復しなかった。脳の管轄している部分が他の回復した箇所と違うということなのだろうか。

そして、これは仕方のないことではあるのだが、今から思うともっとそのときに試すべきだったことは沢山ある。
その代表例が、フォーシームの握りを上二本指だけではなく、
三本、四本としなかったことだ。
慣性力に拮抗して指を押し付けるのであれば、
何も従来の二本指にこだわる必要はない。
100%指にかけることが出来るのであれば、三本でも四本でも力が抜けることはない。チェンジアップにならないはずなのだ。
二本であの威力だったのだ。
四本だとどうなるのか。早く見てみたくて仕方がない。

ただそれだとコントロールはどうなんだと思われるだろう。
そもそも二本でもそんな変な投げ方でコントロール出来るのか?
そう思われても無理はない。
三本、四本に関しては実際近い動きをしてみても二本の場合とほとんど変わらないでリリース出来る確信は持てた。懸念された力が分散したり、リリース時に指とボールがズレたりというのもなさそうだった。
では二本指の体験のときのコントロールは?
これも驚いたことに99%だった。
信じがたいことだが、
自分でも見たことのない速球を
99%の精度で操れたのだ。
だが、原理を考えたらそれはそれほどおかしなことでもなかった。
純粋に近い前方向のベクトルに、純粋に近い下方向のベクトルを拮抗させているのだ。
言わばレーザーポインタを目標物に当てているようなものなのだ。

他に試したものは、
投げる直前にサイドスローに変える外国人投手がよくやるヤツだ。
―それもかなりいい球がいった。
ただ、ボールが空中に固定される感覚はなかった。
ただ単に上手くサイドスローで投げられたといった感じ。

あとはクイック。
これも凄い。
正確な数字で表すことは慣れていないので出来ないが、
まず盗塁は無理だろうと思うスピードだった。
何をやってもバネになるため、
瞬発的に一連の流れを完成させることが可能になっていた。

そして、最も驚くべきは
肘と肩に一切負担を感じなかったことだ。
これは単に脳内麻薬によって鎮痛効果が生まれたから痛みがなかったというのではない。
痛みどころか、肘を使った感覚すらなかったのである。
その代わりに手首のちょっと下の辺りと、投球腕方向の肩甲骨の内側にだけ、即効で筋肉痛が出た。それと、もちろんこれでもかとボールに引っ掛かった指も、今まででは考えられないほど痛んだ。
慣れていなければ10球も投げられないだろうもいう痛みだった。硬球だったら血が出ていただろう。私ももちろん、少し投げただけでギブアップだった。
そのとき指の皮を厚くするのもこれからやらなければならないことのリストに入ったのは言うまでもない。
話は戻って、なぜ手首と肩甲骨の内側だったのか。
前回ペンギンの前ならえと言ったが(もしくは機関車の真似とも言える)、そのポーズからクリッと身体を捻って肩甲骨の内側と背面側の肋骨の下部のみを使って真っ直ぐ前ベクトルに投球腕を打ち込むわけだが、
身体のバネを使っているので肘は使わなくても勝手に腕は前に射出される。
なのでそのとき伸ばされる肩甲骨の内側だけ筋肉痛になった(実際投げるときにはそこはそれほど意識しない。意識するのはほぼ肋骨の下部のみ。)。
そして手首に関しては前回も言ったが、空中に固定されたように感じるボールを切ろうと思ったら、それはそこに力が入る。これは普段机に指を引っ掛けてみても同じことだが、そのときは余計な力が抜けていたので、本当に手首のところしか力がかからなかった。

またバネの感覚というのは、
連られない感覚だ。
例えば操り人形のように腕を右に動かしたら右にダラン、左に動かしたら左にダランではフワフワした感覚しか持てないが、
腹の辺りでその連れられる力を抑えることが出来れば、
その引っ張られる力がバネになる。
ただ、腹と言っても腹筋を使ったキュッという筋肉の使い方ではない。力を入れると逆に内側から腹腔が広がっていくような力だ。
まあ、だからいわゆる腹圧というヤツだろう。
ただ、腹圧と言われると、筋肉を意識しすぎたり、呼吸を意識しすぎたりしてしまうリスクがある。
そこはやはり自律神経が自動でやってこその力だから、即席でどうにかしようと思ってしまったら逆に遠回りなのだろうとも思う。
現状再現できていない私が言うのも難なのだが…。

 

そういう風に扱うエネルギーが大きすぎるため、これらの体験を公開するのには多少迷いがあったが、どう考えてもこの文章を読む人は限られているし、

しかもこの悪文だから理解もされないはずで、逆に丁度いいんじゃないかという気がしている。

今回も疲れたので最後の方は特に勢いで書いた。やはりこれが今の私の限界なのだ。

 

次は変化球について書く予定

 

 

 

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