平和台球場跡地~縦縞のホークスの思い出とともに~

 

 (去年の11月30日の話です)

福岡に行ったら必ず行きたかった場所がありました。

 もちろん平和台球場跡地です。

 言うまでもなく、今は国の史跡鴻臚館跡としての方が通りがよいのかも知れません。

 私が小学校6年生の時(昭和62年)、「平和台球場の下には貴重な遺跡が眠っているようだ。発掘するなら平和台球場の移転は避けられない。きっと立派な球場ができるだろう。これは九州球団誕生につながるかもしれない」という雑誌の記事を読みました。

 その1年後、平成の幕開けと共に福岡ダイエーホークスが誕生し、その記事に書かれていたことは正夢になったのです。

 茶色の縦縞のユニフォーム、背中の鷹がカッコいいグランドコート、そしてガッチャマンのようなヘルメット。

 「これが平成のプロ野球の姿なんだ」

 新鮮で、見ているだけで胸が高鳴る思いがしました。

 実際、ダイエーホークスの1年目(平成元年)は面白かった。

 佐々木、アップショー、バナザード、岸川・・・ホークス打線はホームランを量産し、混戦だったその年のパリーグを盛り上げてくれました。

 しかし,華々しく田淵監督に代わった2年目(平成2年)は開幕から連敗に次ぐ連敗。

 開幕投手に指名されていた加藤投手が故障したのが歯車の狂い始めだったのか、投手陣が崩壊状態。

 巨人から本原投手、山田投手の譲渡を受けたり、大リーグで実績のあるゴセージ投手を獲得して立て直しを図りますが焼け石に水。

 だからこそシーズン中に2度の背番号変更を受け「18番」を背負った若きエース村田投手が1年通じ奮闘したことが強烈な印象を与えました。

 いつの間にか若きキャッチャー吉永選手が4番に座っていたことも特筆すべきでしょう。

 つまりは世代交代、若手抜擢の年だったのです。

 捲土重来を期して大補強を行った3年目(平成3年)のダイエーホークスも忘れられません。

 何が忘れられないかと言えば、阪神タイガースからトレードで獲得した大野外野手と池田投手が大活躍。逆にダイエーから阪神に行った選手は・・・言わぬが花です。阪神ファンとしては悪夢のようなトレードでした。

 門田選手もブレーブスから帰参を果たし、本数は減ったものの熟練の技でアーチをしばしば放ちました。

 そして、4年目(平成4年)のダイエーホークス。

 これが本拠地としての平和台球場最後の年でもありました。

 ダイエーは開幕直後首位に立つなどパリーグを沸かせますが、やはり優勝争いには絡めず田淵政権も終焉を迎えます。

 しかし、平和台での最終戦。

 近鉄との対戦で、この年のドラフト1位若田部投手が近鉄の大エース野茂投手と見事な投げ合いを演じ、広永選手のホームランによる1点を守り切って有終の美を飾ったのです。

 私は福岡のライオンズを知らない世代なので、平和台と言えば縦縞のホークスしか思い浮かびません。

 しかし、私は平和台球場の跡に立つことができて自分の中学2年生から高校2年生までのプロ野球の思い出を楽しく回想することができました。

 「ダイエーホークス。お金持ちの球団ができて、次から次へと有名な選手や有望な新人を獲得していって、すぐに西武や巨人よりも強いチームになると思っていたけれど、案外時間がかかったな・・・。それも、初の日本一に輝いた時には決して財政的に盤石ではなくなっていたんじゃないかな・・・。歴史って、人生って、不思議だな・・・」。

 平和台球場跡地の空の下、大きく深呼吸して私は「認知症ケア専門士2次試験」に向かうのでした。

 福岡野球旅、試験が無事終了した後、もう少し続きます。次は意外なところへ行きます。

 

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