サッカー回想録 小学校編


私事で恐縮ですが、少し昔の事を思い出してみました。

私がサッカーを始めたのは、小学校3年生の3学期から。昔は主流であった、その小学校にあったサッカー少年団でした。変な?ルールのため、4月生まれの同級生から遅れる事半年以上・・・、やっと少年団に入団しました。

変なルールとは、9歳にならなければ入団できないと言うものでした。

もし、小学校に野球やソフトボールがあったら、そっちに行っていたかも知れません。


そして、生涯初のユニホームを貰ったのが(正確には親に買って貰ったですが・・・)小学校4年生の夏。要は6年生が最後の大会である、現在の全日本少年サッカー大会県予選で負け、新チームになった時でした。

昔は、全日本少年サッカー大会を「さわやか杯」とか言っていたような・・・

コカコーラがスポンサーで、「スカッとさわやかコカコーラ」から来ていたと・・・

記憶違いじゃなければですが。


初ユニホームの背番号は「24番」。

何か意味があり、この番号にこだわりがあればカッコいいですが、5年生が好きな番号を取り、4年生は名前順という、いささか大人の身勝手で決められた番号でした(笑)

それに、4年生から試合に出ていた5年生は既に背番号がありましたが、「10番」だけはチームの会費から支出し新しいユニホームをその選手にプレゼントすると言う風習がありました。

それは監督指名により決まるので、その「10番」を目指し仲良しながら、みんながライバル意識を持っていました。


私は幸いに、4年生から試合に出させてもらえました。

しかも名字が「や行」であったがための背番号24を背負ってです(笑)


思い出して頂きたいのですが、その当時のユニホームのパンツは「短パン」でしたよね。

マラドーナもヨハンクライフも、ベッケンバウアーも「あの」短パンを履いていました(恥)

しかし、我がチームは当時では珍しく「ロンパン」でした。

ロンパンとは、ロングパンツで現在のパンツと同じくらいの長めのパンツでした。

正ユニホームは、上下「黄色」で少年団名と番号は「黒」、副ユニホームは上下「白」でした。


問題はストッキングです!

現在のような足から膝辺りまでを全て覆い隠す「現在の」ストッキングではなく、足首から膝辺りまでしか覆い隠さないストッキングでした。土踏まずの所に「ゴムの輪」があり、それを足に引っ掛けて履くタイプです。分からない方のほうが多いと思いますが(^^;)

ですから、必然的にその下に「靴下」を履く訳です。もちろん、スクールソックス(白)です。スパイクから少し見えるそのスクールソックス・・・当時は気にもなりませんでした(笑)


私は4年生まで身長が高い方ではなく、しかし親からすると経済性も考慮し6年生まで着れる様、大き目のサイズでした。それ故、試合になると、7分袖の上に7分丈のズボンを着ているようで、しかも短パンの紐をギュッと締めなければずれる為、ウエストは大きく波を打った状態でした。例のストッキングも思いっきり引っ張ると、足の付け根まで届きましたね。

冬場は面白がって、パンツの中まで引っ張り込んで試合をしたものです。当然試合中、通常の位置まで下がりますが・・・。


同じ町内の少年団は、アシックスやアディダスなどの「メーカー品」でユニホームを作っていましたが、我がチームは「Younger(ヤンガー)」という3流メーカーのものでした。(ヤンガー関係者の方すいません)

しかし、私はこのユニホームが大好きでした。何も飾りっ気のない無地の黄色でしたが、どこか「凄み」の様なものを感じ、またロンパンであった事で「ちょい悪感」もあり、もう一度着たいユニホームNo.1です。


この背番号「24」には、1年だけお世話になりました。

決して現在のような機能性に富んだユニホームではありませんでしたが、必死になってボールを追いかけた汗と、勝敗に関わらずみんなで流した涙が、あのユニホームには浸み込んでいました。


小学校6年生の夏。地区予選決勝で、同町内の少年団に惜敗し引退となりました。

県大会、いや全国大会を目指していましたが、夢叶わず・・・

唯一、その決勝で負けた相手が県大会を制し全国大会へ出場した事が慰めです。

中学へ進学し、チームメイトとなる彼らのその健闘が、その後のサッカーにおいて大きな出来事になるとは、この時は考えてもいませんでした。


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