思い違いもはなはだしい

  • DIME
    2009年10月26日 18:43 visibility148

「マスコミ」とは「ファン」ではない。
ファンの代弁者を自称するのは勝手だが、「自称しているだけ」である事実をわかっているぐらいの謙虚さはせめて持っていて欲しいもの。

そもそも「ファンに成り代わって聞いている」のだとしても、だからといって「野球に対する知識はファンと同レベルで良い」という理由にはならない。この記事の論理的な飛躍はそこにある。
「専門性の高いインタビュー」を「読み手がわかるようなレベル」まで落とすのはどう考えてもメディアの役割であり仕事だろう。
それを「読み手のレベルまで落として話せ」というのだとすれば、それならそれで結構だが、少なくとも「自分たちがメディアとしてその程度のことすら出来なくなった」からそれを相手に求めざるを得ないんだということぐらいはわかっていてほしい。
「誰かの発言を文字にする」事が仕事だと思ってるなら、あなた方が手元に持っているICレコーダーに、記者証を下げさせるべきだろう。果たす役割の大きさでいえば、そっちが記者で、その持っている手の先にあるであろう脳みそその他はただのバイトだ。

知る権利とは、「国民」が持っているものであり、それを代行する誰かが持っているものではない。
自分たちにとって都合のいい、記事を書きやすい相手を求めているだけじゃないか。
「ネタをくれる」ことが「能力が高い」事になってしまうのは、どう考えてもメディアが悪い。
思い違いもはなはだしい、あきれる。分を知れ、勉強しろ、専門性を持たずして何がメディアか。

記者に話すことがイヤであることは、ファンに話すことがイヤということではない。
せめてそれだけはわかっていて欲しいものです、今村様。老婆心ではございますが。

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相手の日本ハムナインも一緒になった感動的な胴上げが、これも“人徳”かNHK衛星の生中継の枠にきっちり収まった。大病もせず、74歳までユニホームを着続けた楽天・野村監督の幸せなラスト。“長生きも芸のうち”とはよくいったもので、選手・監督合わせて46年というノムさんの野球界への貢献度は計り知れない
▼喜怒哀楽や人情の機微が凝縮され、真意や真実が隠されたその“ぼやき”も、また一つの芸として心をとらえた。かつて、漫才では世相をやり玉にあげ「責任者出てこい」と笑わせた人生幸朗・生恵幸子のぼやき漫才が人気を呼んだが、“ピン”のぼやきではノムさんの右に出る者はいないかもしれない
▼最後の指揮後の会見では「人間は何を残すかよく考えるが、人を残すことができた」と話した。どの社会でも自己の名誉や出世のため後進の芽を摘み、足を引っ張る人間は多い。えてしてそういう人の方が評価を集め、出世する世の中。ノムさんの言葉は政治家、学者、サラリーマン…あらゆる世界に通じる至言ではないか
▼パもセも盛り上がったCS。一つ残念だったのは、ノムさんとは対照的な中日・落合監督の木で鼻をくくったような各試合後の談話だった。中でも「聞くな。記者の聞きたいことぐらいわかってる」の一言には驚く。監督にとっては、いちいち話す気にもなれない初歩的なことでも、記者はファンに成り代わって聞いている
▼勝っても負けても、ファンのためにチームを代表して話すのも監督の大事な仕事だ。何も気の利いた話を要求しているわけでもない。そんなに記者に話すのがいやなら監督などやらない方がいいのではないか、と老婆心ながら思う。(今村忠)
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