大垣市立青墓小学校~青墓の悲話
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ふるさと君
2012年02月15日 20:16 visibility1275
みなさん、こんにちは[d140]
スポーツ教室担当杉浦です[d88]
今回は大垣市立青墓小学校に2回目の訪問をしてきました[d228]
3年生80人の様子を一気にどうぞ!!
まずは自己紹介です。
今回は3年生のみんなに呼び方を決めてもらったのですが
その結果「けいちゃん」になりました[d231]
この名前は・・・どうですか!?みなさん!!
そのあとはみんなで
体操です。
寒いのでしっかり伸ばしました[d1]
体操が終わったら
全員でボール慣れ運動です[d153]
片手のパスや
インサイドキック
インステップキックも行いました[d231]
その後は2つのグループに分かれて
ボールリレーと
じゃんけんシュートを
交代で行いましたよ[d228]
最後に記念撮影をして終了です。
青墓小学校3年生のみなさんありがとうございました[d140]
ところで
タイトルの青墓の悲話ですが
こちらは体育館に飾ってあった
卒業記念制作です。
源義朝の次男
朝長の傷ましい悲話が題材になっているそうです。
ウィキペディアによると・・・
12月26日に信頼・義朝討伐の宣旨が下り、平氏の軍勢が内裏に押し寄せた。朝長は兄の義平、弟の頼朝とともに内裏の守りについた。この時、朝長は16歳[1]。やがて戦闘が始まるが『愚管抄』によると信頼方は合戦が始まるとすぐ京の市街地に出て、やがて六波羅へと押し寄せたが、最後は十騎程度の兵力となり敗北。都を脱出する[2]。
義朝は少人数となった子や一族郎党とともに京を落ち再挙すべく東国を目指すが、大原(現京都市左京区大原)の竜下越で落ち武者狩りの比叡山の山法師が行く手を遮ったため合戦となり、義朝の大叔父の義隆は首筋に矢を受けて落馬、朝長も左腿に矢を受けてしまい、鐙(あぶみ)を踏みかねた。義朝が「矢を受けたか、常に鐙を踏み、敵に裏に回り込まれるなよ」と励ますと、朝長は「私は大丈夫です。それよりも陸奥六郎(義隆)殿が深手を負われています」と気丈に答えた(『平治物語』)。
一行はなんとか山法師を蹴散らして先へ進むが、近江国堅田の浦で義隆の首を埋葬し、その後逃亡を続ける。その間、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。
一行は美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)に着いた。ここの長者大炊は義朝の妾の一人であった[3]。一行はここでもてなされて休息した。
ここで義朝は義平と別れ義平は東山道へ向かった。義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否父の義朝に頼んで殺害してもらったという[4][5]。 その後、尾張国で義朝は長田忠致の裏切りにあって殺され、首は京へ送られた。
大炊は朝長の亡骸を丁重に埋葬したがやがて平氏の知るところとなり、墓は暴かれ朝長の首を取られて、京の六条河原に義朝とともにさらされた。朝長の首は守役だった大谷忠太が奪い返し、遠江国豊田郡友永村(現静岡県袋井市友永(ともなが))に埋葬した。そのため朝長の胴の墓は岐阜県大垣市に、首の墓は静岡県袋井市に二つある。
江戸時代の俳人松尾芭蕉は青墓の朝長の墓所を訪れて「苔埋む蔦のうつつの念仏哉」と詠んでいる。
・・・だそうです。
青墓地区は
古墳があったり
悲話があったり
なんだか魅惑の地域ですね[d228]
杉浦圭介
- 事務局に通報しました。
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