去り際


ご存知のようにジネディーヌ・ジダンの現役の幕引きはマルコ・マテラッツィに頭突きを喰らわせて一発退場という、信じがたいものだった。


この去り際、自分の中ではディエゴことディエゴ・マラドーナやロビー(ロベルト・バッジオ)に並んだ存在になった瞬間だとも思った。


ドラマティックな去り際だから、スターと言うんじゃない。ルーツを辿るとジダン自身、マルセイユでも屈指の貧民外といわれる区域の中心で父親は北アフリカのアルジェリア移民の子。マルセイユの工場員。賃金が払われないとストが起こる会社でもあったようである。アドリアーノが幼少期を過ごしたブラジルのファベーラとは比べ物にならないがここも治安は劣悪で、将来は盗人か肉体労働者かという地域だった。そこで育ったジダン。


マラドーナもブエノスアイレス貧民街出身である。そこでどう生き抜くべきかを学ぶ。ずるをしてでも法に触れてでも、時には人を殺めるかもしれない瀬戸際で。


一方、マラドーナやジダンはふっと何かがはじける瞬間があった。それはバッジオにはない部分。ジダンは98でもサウジアラビアの選手の足を踏みつけ2試合の出場停止処分を受け、マラドーナはナポリ時の晩年からおかしくなりはじめ、90年代初頭にはマスコミにエアガンを乱射。その後コカイン漬けの麻薬中毒になるなど、どこかが一瞬に沸点になる瞬間がある。


おそらく彼らはどうすればより輝き、目立ち、素晴らしいその時がおくれるかを考えながら過ごしていたんだと思う。四六時中だ。平和ボケしている日本人我々には絶対にわからない次元だろう。貧民脱出とはそういうことだと思う。人生の上で何倍も神経を尖らせてきた。幾多の注目と重圧を世界中から浴び、気づけば出来上がるもうひとりのスーパースターという自分。


マラドーナは現役引退時に「俺は今まで多くの過ちを犯してきたが、サッカーでは一度も間違ったことをしなかった」とセレモニーで語った。多くの夢を与え、歓喜をもたらしたからこその言葉である。だからこそ「一度も間違ったことをしなかった」は受けいれられる。


ジダンは最後に大きな過ちを犯した。それは究極の神経戦での所以ともう一人の「スーパースター」の虚像の所以。しかし、フランスのテレビ実況が「ジダンの素晴らしいプレーを、もたらしてくれた喜びを振り返ると涙が出てきます。」といい、同じくフランス代表メンバーのFWティエリ・アンリは「フランス国民とメンバーたちから代表して言わせてもらうとジズー(ジダンの愛称)に言いたいのは一言、ありがとうだ。」と語る。


スーパースターという虚像としての去り際。それはある視点では寂しく切なく、もう一つの切り口で見ればジダンという存在が本当に伝説になった瞬間だとも言えた。最後の最後に過ちを犯してしまったが、責めるものはこれからも誰一人としていないだろう。いるとすればそいつはスーパースターの意味を分かっていない不届き者だ。


これからはジネディーヌ・ジダンという「自分」に戻れる日が訪れるんだろう。夢を与えたスーパースターは演じるのが困難な作業だ。自分からその鎧を脱いだ。むしろ、その去り際は美しかったとも思っている。美化とはまた違う、えも言われぬ世界でしか表現されない後姿であったからだ。表彰式にも宿舎からのバスにも姿を現さなかったジダン。ゆっくりとマルセイユ時代の「ヤジッド」に戻って休んで欲しい。


月並みですが、幾多の感動と驚きをありがとう。愛すべきスーパースター。<!-- -->





























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