【プラティニとサッカーの未来】
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吉田大五郎
2007年02月21日 11:27 visibility138
すんごく遅くなりましたが、
プラティニスタであるクレイジーフットボラーなら、
少し語らっておかないといけないんで。
もちろん、UEFA会長選挙。
高齢&多選のヨハンソンを破り、
当選、当然。
とはいえ「UEFA改革」を掲げ続けるであろうプラティニの行く末は、
決して平坦なものではないと、容易に予想もされるものである。
これを歪な構造と評するかどうかは、議論が分かれることだろうが、いずれにしろプラティニは、行き過ぎた市場主義、への警鐘を鳴らすだろう。
例えばそれは、
ボスマン判決による移籍に自由化であり、
東西冷戦の崩壊による東欧諸国からの選手の流動の活発化であり、
それに伴うチャンピオンズリーグの拡大、等々により失われ、損なわれていく何か、であろう。何かとは何であるか、と言えば多分それは、フットボールの本質としての、楽しみであり喜びなのだろう。
個人的には、現在のフットボールシーンにおいて、クラブの「価値」、あるいは選手の「価値」は、かつてよりも薄まっているのではないかと思う。 クラブの値打ちや格付け、あるいは選手の価格・商品価値なら、勿論高騰しているのは事実である。高い・低いなら高いけれど、濃い・薄いなら薄れている。個人的にはそう思う。 機会均等とも言えるのかもしれないが、現在のフットボールには余りにチャンス⇒機会が多過ぎる。欧州クラブチャンピオンを狙う機会も多過ぎるし、ビッグクラブ同士の対戦の機会も重なり過ぎているし、選手の移籍も「煩雑」に過ぎる。 これは、例えば、「選手の自由な職業(職場)選択の権利」云々とは全く別な意味である。 CL的機会が多過ぎるために、ローテーションと名付けビッグプレイヤーを囲い込むクラブが増え、出場機会を求める選手は、また別の「CLに出られるクラブ」への移籍を繰り返す、というような循環が、クラブと選手の「価値」を薄めている。 その循環は、選手の「青田買い」にも通ずるだろうし、試合過多による選手寿命の問題、果てはメンタルでの「燃え尽き」的な意味合いにも繋がるものではないか。 「面白い楽しみな対戦がたくさん、毎年見らたらそれでいいじゃないか」と考えるファン心理と商業的価値を全て無視しろとは言わないが、飽食の時代そのままに、CLにはグループリーグからビッグカードがなければ飽き足らん、という麻痺感覚に馴れきってしまうのは危機的な未来でもある。 プラティニの掲げる「CL改革」にも、もちろん異論も反論もあるだろう。でも、ベスト8からビッグマッチがいよいよ組まれる、そういうスタイルで問題があるだろうか、放映権などの商業価値以外において。 地域密着の根付きの深みがまだない、100年構想を掲げつつも歴史のまだ浅い、この日本においても、例えばアジアCLで浦和の試合は閑古鳥が鳴くだろうか。アウェイ戦を放送しても浦和サポーターは安眠快眠の方を選ぶだろうか。長く深みのある歴史を持ち、クラブと地域が密着し融合している欧州ならば、おらが町のクラブがCLに出場することで、フットボールの持つ力、スポーツが持つ力が、結果的により大きな果実を未来に残すことは、十二分に可能であると思う。 その可能性こそが、フットボールの本質でもあると、プラティニもそういう見方なのではなかろうか。 というようなことが、3倍くらいのボリュームで書いてあるんで、良かったらコチラでどぞ♪『Road to PK BAR(仮)』http://wearecrazy.exblog.jp/毎度毎度、ありがとうございます。
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