☆黄金週間ぶらり散策スペシャル①~名将木内幸男監督~




 


 


 


茨城県の南部に位置し、市の東には日本第二の広さを誇る霞ヶ浦、西には万葉の世から名峰と謳われた筑波山を臨み、レンコンの生産量日本一を誇る、人口約14万人の土浦市に、茨城県立土浦一高があります。


 


土浦一高は、1897年(明治30年)創立の歴史を持ち、旧本館は同県の旧制太田中学校講堂とともに全国の旧制中学の建造物として初めて国の重要文化財に指定され、進学実績は、筑波大学への合格者数は大学の開校以来2回を除き全国1位、他の主な大学の最高合格数は東大が43名、東工大が21名、東北大が32名、慶応大が76名、早稲田大が144名と関東有数の公立の進学校です。


歴史的にみて他県の甲子園出場校に例えると、大館鳳鳴高校、仙台第二高校、磐城高校、栃木高校、熊谷高校、岡崎高校、四日市高校、膳所高校、鳥羽高校、三国ヶ丘高校、兵庫高校、米子東高校、浜田高校、熊本高校、甲南高校といったところでしょうか。


 


野球部は、1897年(明治30年)創部の伝統を持ち、1957年(昭和32年)第39回全国高校野球選手権大会に一度だけ出場し、甲子園通算成績は1勝1敗です。


 


土浦一高といえば、監督としての甲子園通算勝利数40勝を誇る、名将木内幸男監督の出身校でもあります。


 


木内氏は、1948年(昭和23年)に同校の野球部に入部し、一年の時からレギュラーを獲得。二年の時には夏の県大会でベスト4進出。三年の時は、主将となり、一番打者で守備範囲の広いセンターとして活躍した。
この頃の土浦一高には専属の監督がいなかったようで、木内氏が今でいうプレーイングマネージャーとして奮闘していた。木内氏は、相手チームの出方を察知して、選手交代や守備位置をてきぱき変えるなど、選手時代から勘が鋭く、ひらめきで野球をしていたようだ。
木内氏の最後の試合は、水戸水府球場での2回戦の茨城高校戦。試合は3-2とリードしたまま最終回の守りについた。ランナー、一、二塁のピンチの場面に、打球は偶然にも木内氏に向かって飛んできた。小さな体でダイビングキャッチ。しかし、差し出したグローブからボールはこぼれ落ち、打球は外野に転々と転がりサヨナラ負けとなった。


 


木内氏は慶應義塾大学に合格していたが、このプレーの心残りと当時の監督がほとんど練習を見ていなかったこともあって、そのまま土浦一高でコーチを続けることを決断する。
後に、阪神の監督を務めた安藤統男氏を2年生まで指導し、木内氏が取手二高に移った翌年1957年(昭和32年)に土浦一高は初の甲子園出場を果たしたのだ。



 


 


 


以上です。

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