☆日本最初の野球チーム


浅草寺でお互いの幸せを祈り、浅草駅へと向かった。
黄昏の駅で胸が震えた。
懐かしさの一歩手前で、苦い思い出に言葉が見つからない。
あなたがいなくても元気で暮らしている事を告げたかった。
二年の時が変えたものは、彼のまなざしとわたしのこの髪。
ひとつ隣の車輌に乗り、うつむく横顔を見ていたら、思わず涙があふれそうになった。


こんな感じの歌があったなと思いつつ、地下鉄銀座線の新橋駅で下車した。
地下鉄銀座線といえば、1927年(昭和2年)に日本で最初の地下鉄として浅草~上野間で営業を開始した路線である。










新橋は、日本の鉄道発祥地で有名であるが、この鉄道発祥地で日本の野球チームが生れたといわれている。
1871年(明治4年)に16歳でアメリカに留学した平岡煕(ひらおか・ひろし)は、ボストンやフィラデルフィアの汽車製造会社に勤めながら鉄道技術を学んだ。
ボストンでの工員時代、野球チームのレギュラー選手となり、カーブを投げる名投手であった。
1876年(明治9年)帰国の時に、米国みやげに野球道具を日本に初めて持ち帰った。
伊藤博文の紹介で工部省鉄道局に入り、新橋工場に勤めるようになった平岡は、1878年(明治11年)工場の仲間や学生たちを集めて日本で最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成した。
つば広の白い帽子、膝までのニッカボッカーズボン、赤いストッキングというユニフォームは、当時としては非常にハイカラであった。
監督兼投手の平岡が投げるカーブは「魔球」といって恐れられた。
俳人の正岡子規も、一高のベースボール部時代、平岡に野球を習っていた。
日本の野球の発展に多大な貢献をし、我が栄光の読売巨人軍を創設した正力松太郎とともに野球殿堂入り第1号となった。
個人経営の車両製造会社「平岡工場」を興して巨万の富を築くかたわら、三味線音楽の東明流を創始し、絵を描き、江戸物コレクションにも造詣が深いなど、多才な趣味人として77年の生涯を終えた。



カーブといえば、やはり今中慎二を思い出します。





以上です。

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