☆夏のはじまり
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鶴丸 深志’
2012年06月17日 21:11 visibility298
今年で第94回を数える夏の甲子園大会。その地方予選が全国のトップを切って沖縄で16日に開幕した。
マイヤキュウさんによると、沖縄大会の記事で北部農林とか南部農林とかの校名をみると地方予選が始まったなぁ~と思うようです。
アタシは、日田林工や天竜林業、富田林や桜美林の組み合わせ相手が決まると地方予選が始まったなぁ~と思います。
その第1回大会は、北海道、東北、関東、北信越、東海、京津、兵庫、関西、山陽、山陰、四国、九州の12地区から代表を集めて開催しようというのが朝日新聞社の思惑だったのだろう。
しかし、告知が7月2日、開催が8月中旬という急な日程のうえ、連絡不備や交通事情、さらには野球害毒論により野球が下火になっている県もあり不参加の県も多かった。
結果的に、秋田、東京、愛知、岐阜、三重、京都、滋賀、兵庫、大阪、和歌山、岡山、広島、鳥取、島根、香川、徳島、福岡、長崎から73校が10地区に分かれて予選に参加するかたちとなった。
では、各地区の予選状況はどうだったのだろうか?
北海道地区(不参加)
札幌一中と北海道師範の応援団同士で紛争があり、北海道庁が対抗試合禁止令を出しており第1回大会は不参加となった。禁止令が解かれた第6回大会から北海道予選となる全道大会が始まった。
尚、第2回大会に函館商、第5回大会には小樽中が東北大会に遠征して予選参加している。
東北地区(代表校:秋田中)
朝日新聞社から秋田中のみに全国大会開催の連絡が入ったが、他の東北各県の中学にはなされなかった。その際、東北各県に連絡して東北予選を行えとの指示もなかったため、秋田中は東北代表として招待されたと思い込んでしまった。その後、対戦成績を送れと指示があり、慌てた秋田中は県内の横手中、秋田農と試合を組み優勝、その結果を送った。それが東北予選と受けとめられ秋田中が東北代表となった。
東北各県に連絡があったら、盛岡中(現・盛岡一)、一関中(現・一関一高)、仙台二中(現・仙台二高)は予選皆勤校になっていたかも知れない。
尚、第2回大会から初参加したのは岩手(盛岡中・一関中)、宮城(仙台一中・仙台二中・築館中・佐沼中)、福島(会津中・福島師範)、青森は応援団の乱闘が原因となり対抗試合が県知事により禁止されており初参加は第8回大会(八戸中)、山形は第5回大会(荘内中)から。
関東地区(代表校:早稲田実業)
日程的に間に合わないとの判断から告知後の大会は実施されなかった。関東大会予選として採用されたのは、明治末期から行われていた第6回東京府下中等野球大会。この大会で優勝していた早稲田実業が関東代表となった。実はこの大会は3月末に開催されており、府下大会優勝時のメンバーと全国大会出場時のメンバーは違っていたようだ。
尚、第2回大会から初参加したのは茨城(竜ヶ崎中)と神奈川(神奈川一中・神奈川師範)。千葉は佐倉中と成東中の応援団の衝突から対外試合が禁止されており第4回大会(銚子商・千葉師範)から、栃木は第4回大会(真岡中)、群馬は第6回大会(前橋中)、埼玉は第7回大会(熊谷中・浦和中)、山梨は第4回大会(甲府中・日川中)から。
北信越地区(不参加)
旧制四高主催の北陸関西中等学校野球連合大会が明治末期に始まっており、朝日新聞社はこれを予選にしようと考えたが、大会開催は8月末で全国大会には間に合わない。朝日新聞社は何とか日程調整しようとするも、結局都合がつかずに不参加となる。
日程調整がつけば、金沢一中(現・金沢泉丘)は予選皆勤校になっていたかも知れない。
尚、福井のみ明治末期から活動が停滞しており初参加は第4回大会(敦賀商)から。
東海地区(代表校:山田中)
明治35年から始まった愛知、静岡、岐阜、三重に滋賀を加えた東海五県連合野球大会が予選となった。ただ、滋賀はこの年より県知事訓令により京都以外との対外試合が禁止されたためこの大会には不参加。優勝した山田中が東海代表となった。
尚、静岡のみ明治末期の野球害毒論の影響のためか初参加は第2回(浜松中)から。
京津地区(代表校:京都二中)
近畿の地方大会に旧制三高の大会があったが、開催は11月と遅く予選にはならず、また、滋賀は京都としか試合が出来なくなっていた。そこで、朝日新聞社の主催で、滋賀と京都だけで京津予選をあらたに組み、優勝した京都二中が京津代表となった。
兵庫(代表校:神戸二中)
兵庫は朝日新聞社主催で全国唯一単独予選となり、優勝した神戸二中が兵庫代表となった。兵庫は当時から野球が盛んで、参加校も多く、その点が評価され単独枠が認められたのでしょう。
関西地区(代表校:和歌山中)
大阪、和歌山、奈良で予選を行うため、朝日新聞社は大正2年に始まった美津野主催の第3回関西学生連合野球大会を予選にしようと考え交渉した。しかし、この大会は京都や兵庫、岡山も参加する大会であったため試行錯誤の末、1府2県の中学を準決勝までのAブロックに集め、Aブロック勝者を決める準決勝を1府2県予選の決勝と位置づける方法で何とか実施にこぎつけた。反対のBブロック側には、その時点で予選を終えていた兵庫や京津、岡山からの参加校を集めた。
尚、奈良は天理中の野球部員の素行不良の影響があってか不参加、初参加は第3回大会(奈良師範)から。
1府2県予選は和歌山中が優勝し関西代表を決めるとともに、関西学生連合野球大会決勝進出も決めた。
一方、Bブロックからは神戸一中が勝ち上がった。神戸一中は兵庫予選敗退の悔しさを晴らすかのように、京都二中、神戸二中と全国大会代表の2校を破った。さらに、決勝でも和歌山中を破り、関西学生連合野球大会優勝を果たした。
苦労して開催にこぎつけた関西学生連合野球大会であったが、兵庫大会予選で敗退し代表の座を逃した神戸一中が他の近畿地区3代表校を破ってしまうという後味の悪い結果となった。
山陽地区(代表校:広島中)
山陽地区は明治40年に始まった旧制六高の近県連合大会を予選にしようと考えたが、こちらも開催時期が折り合わず。朝日新聞社の主催であらたに山陽大会を実施した。優勝した広島中が山陽代表となった。
尚、山口は山口高等商業学校主催の第一回近県中等学校野球大会が開催された年であったためか不参加、初参加は第2回大会(岩国中・周陽中)から。また、岡山は関西中のみの参加で、前述した関西大会Bブロックに参加した岡山中は山陽予選には参加していない。
山陰地区(代表校:鳥取中)
山陰地区には明治39年から始まっていた山陰大会があり、朝日新聞社はこの大会を予選にしようと考えた。しかし、2年前の山陰大会で地元開催側の米子中の応援団が松江中の応援団に木刀や青竹を振り回して暴行を働き、松江中が試合を放棄するという事件が起こり、前年は山陰大会が中止となっていた。
どちらの県で試合をしても危険だということで、先ずは鳥取島根各県で県予選を実施し各県代表1校ずつを決め、その両代表が中立地である本大会開催地の豊中グラウンドで行い代表校を決めることとした。代表決定戦は鳥取中と杵築中で行われたが、杵築中は大阪で初めて見た氷水を食べた事や、当日に武運長久として5月の端午の節句に作った餅を食べた事が原因で腹を壊し力を出し切れないまま、鳥取中が優勝し山陰代表となった。
この試合後、杵築中から鳥取中にエールを送った事もあり、両県にあったわだかまりも無くなり、翌年からは両県混合で山陰大会が実施されるようになったようだ。
四国地区(代表校:高松中)
四国大会は高松体育会の主催、朝日新聞社が後援して行われた。尚、高知は明治末期から野球熱が下火になっていて不参加、初参加は第6回大会(高知商)。愛媛は松山中が参加に意欲を見せるも県の許可がおりず不参加、第2回大会が初参加となった。松山中(現・松山東)は予選準皆勤校だけに県の許可がおりなかったのが今となっては悔やまれる。
当時は交通事情もあり、徳島はまず県予選を実施。リーグ戦で代表3校を決め、香川から参加の5校と併せた8校にて香川県で大会が行われた。
主催が高松中OB中心、審判も高松中OBが占めていたようで、会場だけ香川商グランドであった。決勝戦は高松中と香川商。この試合は打撃戦となり、序盤に香川商が大量リード、高松中が9回に追いつき延長戦という展開。延長10回表に香川商が2点をリードする。これで決まりかと会場の香川商の応援も盛り上がる。ところがその裏、高松中の打者は香川商の投球に対し続けて体当たりを敢行した。審判はそれを死球と判定し、ついには同点になってしまう。香川商側は抗議しますが、審判は高松中OBであったためか受け入れられず。たまりかねた香川商応援団はグラウンドへ乱入、収拾がつかなくなり、最後は憤慨した香川商が試合放棄をし、高松中が四国代表となった。
その後も四国大会はスパイク事件など紛争が絶えなかったようだが、香川開催の時に、高松中・高松商の連名で「われら両校の名誉のために、観覧者諸君はつねに静粛を保ち、遠来の選手に礼をもって接せられたい」とのポスターを貼り、市民に呼び掛けた事で大会は問題なく運営され、これをきっかけに四国大会はこのようなトラブルは無くなったようだ。
九州地区(代表校:久留米商)
明治30年代半から熊本の旧制五高主催の全九州大会が行われていたが、こちらも応援などが問題になり大会は中止となっており、さらに、熊本や鹿児島では対外試合が禁止されていた。
このような九州球界を案じた福岡野球人による福岡抜天倶楽部は、九州に慶応野球部を招くなど野球の興隆に努めていた。その抜天倶楽部が主催、朝日新聞社の後援で九州予選は開催された。しかし、参加は福岡が7校、長崎が1校の計8校。福岡の久留米商が優勝し九州代表となった。
尚、熊本の初参加は対外試合禁止が解けた第6回大会(九州学院中)、鹿児島は第7回大会(鹿児島一中)、宮崎は第3回大会(宮崎中)、大分は第7回大会(大分師範)、沖縄は交通事情もあり第8回大会(沖縄一中・那覇商)から。
このようにして初めての夏の甲子園大会予選は開催された。今では考えられないことも多々ありやや驚きだ。
もう100年近く前の話だが、郷土の代表を熱く応援する気持ちはこの時代も今も同じであろう。
以上です。
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