☆2割の喜びと8割の苦労

ラボ友さんの日記を拝見して、我が巨人軍の今シーズンの成績が77勝36敗であることを知った。
正直、目を疑った。慌てて新聞を見てみると、M6というではないか!
シーズン当初の低迷が嘘のような成績だ。この快進撃は、杉内、内海の左腕二枚と斎藤、桑田の右腕二枚の安定したピッチング、さらに坂本、阿部、黒真茶らの勝負強いバッティングがあったからかしら?(´・ω・`)


我が読売巨人軍は、1934年(昭和9)に大日本東京野球倶楽部として創設された日本に現存する12球団の中で最も歴史が長いプロ野球球団である。親会社は読売新聞グループ本社。運営法人の商号は「株式会社読売巨人軍」である。


 


巨人軍の発祥の地は、千葉県習志野市の谷津である。
1934年4月、正力松太郎氏は日本野球界の発展、健全娯楽の育成のために全アメリカ選抜チームと招聘することにした。1931年(昭和6年)の第一回招聘につぐ二回目の快挙であった。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック等一流選手が名を連ねる米チーム招聘の報が一度び伝わるや日本中は歓呼の声をあげて歓迎した。これに対する全日本チームは六大学の名選手を中心に編成された。母校の名誉をかけて参加した日本軍選手は、この谷津の地に集結、ここを練磨のにわとして、心魂を傾けて、策を練り、技をみがいた。かくして、日米両チームは東京をはじめ全国各地を転戦、いたるところで爆発的熱狂の渦にまきこまれた。滞日二ヵ月、米チームは日本野球界の発展に巨大なる貢献をしたばかりかプロ野球結成の気運を醸成して嵐の如く去った。
そして1934年12月26日、全日本軍の選手を中心にした選手19名で株式会社大日本東京野球倶楽部が結成された。





 


1936年(昭和11年)2月5日、正力松太郎の働きかけもあって東京巨人軍の他、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7球団で職業野球団が結成され、日本職業野球連盟も結成された。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人軍はアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加した。この夏季大会で巨人軍は2勝5敗と惨敗を喫た。予想外の惨敗に終わった東京巨人軍は、1936年9月5日から12日までの1週間、群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。藤本定義監督は、早稲田の後輩で軍隊からかえってきたばかりの三原脩を助監督として招聘した。この猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られ、これが巨人軍の基礎を作ったといわれている。



 


その年の秋季大会は6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され、巨人軍と大阪タイガースが勝ち点2.5で並んだために、3回勝負の優勝戦を行うこととなった。優勝戦は12月9日から3日間、江東区新砂の洲崎球場で行われ、2勝1敗で巨人軍が優勝した。これ以来 毎年のように巨人と阪神が優勝争いの熱戦を見せたため、阪神と巨人のカードは「伝統の一戦」と呼ばれるようになった。



 


阪神といえば、金本選手が引退を表明しましたが、会見での「2割の喜びや充実感を求めて、8割の苦労をしてきた。」という言葉にとても共感いたしますた。


 


 


以上です。













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