☆消えた校名 ~センバツ準優勝校・印旛高校~ 【リメイク版】

千葉県北部に位置する印西市は、東京都心から約40㎞、西は我孫子市・柏市・白井市に、南は八千代市・佐倉市・酒々井町に、東は成田市・栄町に、北は利根川を隔てて茨城県に接している。

千葉ニュータウン地区は、関東平野の中で活断層が無く下総台地上の岩盤が強固とされることから、近年、災害へのリスクヘッジとして大企業のデータセンターが集まり大規模な開発が進められている。

木下地区は、古くから利根川水運の宿場町「木下河岸 (きおろしがし)」と呼ばれ、銚子から江戸への中継地点として栄えた。また、国の天然記念物に指定されている「木下貝層」がある。今から約12~13万年前、関東平野は「古東京湾」と呼ばれる大きな内海になっており、印西市周辺も古東京湾の一部だったとされている。その海底に波や潮の流れによって貝殻が集められ、何重にも積み重なって化石となったものが「木下貝層」である。

 

 

 

この木下貝層を中心に整備された木下万葉公園の隣に、かつて印旛高校が所在していた。印旛高校は2010年(平成22年)4月、木下地区から開発の進む千葉ニュータウン地区に移転、校名も千葉県立印旛明誠高校に変更された。

 

印旛高校といえば、1981年(昭和56年)の第53回センバツ大会決勝でPL学園と名勝負を演じた。
試合は 0 - 0 で迎えた6回表、印旛の攻撃、石井が内野安打、犠打で得た一死二塁のチャンスに白川がカーブを狙い打って中安打を放ち均衡を破る。PLはこの大会初めてリードを奪われる。
PLは初回の二死三塁、4回の二死満塁にあと1本が出ず、7回にも二死から連打が出るが、西川が走塁死。印旛・佐藤の前に1点が奪えないままPLは最後の攻撃を迎える。
9回裏、PLは先頭の泉谷が左飛に倒れる。しかし、続く東が痛烈に左前へ弾き返し一死一塁。ここで岩井に代えて2年生の佐藤を代打に送る。
この場面で印旛・佐藤は急に制球を乱し、3 - 0 とする。
この後、3 - 2 とした後の6球目をPL・佐藤が鋭く弾き返し、これが左中間を深々と破る三塁打となり、一走・東が生還。PLは土壇場で追いつく。
さらに続く西川は、3 - 0 からの4球目を強引に叩きつけると、打球は高いバウンドとなり一塁手のミットを弾いて右前へ。三走・佐藤が還り、PLは逆転サヨナラ勝ちを飾った。

印旛高校の名将・蒲原監督は試合後に「私の指示の不徹底が敗因。非常に悔しい」と語った。

 

 

 

印旛明誠高校は、1901年(明治34年)に創立された組合立乙種農学校と組合立印西女子工業補習学校を起源とする歴史を有する。
野球部は1951年(昭和26年)に創部され、夏の全国大会予選には、千葉県内では銚子商 、千葉師範、県千葉、成田、成東、茂原樟陽 、大多喜、佐倉、長生、千葉敬愛、佐原、匝瑳、千葉黎明、千葉商、東葛飾、安房水産、木更津 、千葉工、市川、安房、市川工、市原、清水、京成工、国府台、多古、鉄道教習所、県船橋、旭農、小見川、市銚子、一宮商、大網、大原、千葉英和、電波工芸、長狭に次いで、安房拓心、千葉東、東金とともに1951年(昭和26年)の第33回大会予選(南関東大会)に初参加した。結果は、聖書農学園(千葉英和)に 4 - 5 で敗退となった。

夏の予選初勝利は、1952年(昭和27年)の第34回大会予選(南関東大会)で、山武農(大網)に 8 - 7 で勝利した。

夏の予選通算成績は83勝69敗2分である。


甲子園には春2回、夏1回出場し、通算成績は5勝3敗であるが、記録以上に記憶に残るチームといえよう。

 

 

 

 

 

以上です。

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